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エスターとその父は、その村の用心棒だった。エスターは母の顔を見たことが無い。
「ずーっとまえにね、あの病気で、しんでしまったんだよ」
それだけが母に関してエスターが知っていることだった。ついでエスターが知っているのは、それゆえ、父と乳飲み子だった自分が故郷を追われたことである。そして、もとは城仕えの名高い剣士であった父はこの村に流れ着き、いまは用心棒として村の安全を守っている。それがエスターの知りうる自分たちの素性全てであった。
そしてエスターも、もう、歳は16を数える。エスターは、年老いてきた父とともに、女だてらに、この村を守る半人前の剣士であった。それでもエスターは幸せだった。剣士の修行はもとから好いていたし、その合間に村中の丘という丘を駆け回り、芝に寝転び、流れる白い雲を眺めるのはこの歳になっても止められない。エスターはだから日々を愛していた。この世を愛していた。たとえ大人たちがなんとこぼそうと、疫病は静かにその日々を脅かしていても、エスターは世界を愛していた。亜麻色の髪を季節の風になびかせながら、そんな日が永遠に続くと、エスターは何の根拠も無く信じていた。
だからその日も、鷹が空高く旋回し、自分の村の上をゆっくり飛び、高らかに鳴きながら羽ばたくのをただ眩しく見上げていた。
「あれは死人を食らう鷹だな」
村人がそうつぶやいた。
「山向こうの村が病で息絶えたってよ、みんな死んだってよ。その屍肉を食らってきたのに違いねえ」
そんな噂は7日ほど前から、エスターの暮らす村にも流れていた。エスターももちろんその噂は耳にしていた。だが不思議とその鷹が汚らわしいものにはエスターの目には映らなかった。たとえ屍肉を食らって飛ぼうとも、空高く羽ばたくその姿は美しい。そしてなにより自由だ。結局はこの暗い人の世を、皆が自然と結びつけているだけのことだ。ぼんやりとそんなことを考えながら、エスターは鷹が遠くの空に飛び去るのを見つめていた。
「エスター!」
はっとして振り向けば、そこには父の姿があった。
「何をぼんやりしているんだ、帰るぞ」
父はそう言いながら、村人から分け与えられた食物を馬の背にくくりつけている。エスターは慌てて飛び起き、髪についた芝を払うと、自分の馬に飛び乗った。鷹の姿はとうに空の彼方に溶け、時刻はすでに夕刻である。急いで村はずれの家に帰る必要があった。父は荷をまとめると、無言で馬を鞭で叩き走らせた。そのあとにエスターが続く。父娘の馬上の影は夕焼けのなか、長く長く伸びてゆく。
「父さん、あの噂は本当かな」
「わからん、鷹が飛べばみな、一つ村が滅びたと言うからな。だが、間違いという証拠も無い、用心するにこしたことは無いな、わかっているか?」
父は手綱を引き寄せながら鋭い眼光をエスターに向けた。
「俺たちは何かあったらこの村を守っていかなきゃならん。そのおかげで暮らし、こうやって飯も分けてもらえる」
「分かっているよ、父さん」
「どうも女は肝心なときにぼんやりして敵わん。お前はもう俺の片腕だというのにな、しっかりしてくれよ」
父の口調はいつにも増して厳しい。エスターはそれに少し驚きながら聞き返した。
「……やつらが、この村にも来ると言うこと?」
「……もし噂が本当なら、あり得ることだ。だから気を緩めるな。俺は念のため、今晩は、夜明けまで、村を見張る」
父は黙りこんだ。つられてエスターも無言となり、そして「やつら」に考えを巡らした。
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