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ここ数年のことだ。人々が恐れているのは疫病だけではない。いや、人は疫病以上に、同じ人間を恐れていた。「やつら」とは人間たちのことだ。それも、疫病に感染して死を待つしか無い病人が集団となって、村という村を襲撃してくる半死人の群れである。
「やつら」は死を恐れない。怖いものなど何も無い。そして何より「やつら」は、健康な人間を憎んでいる。それゆえ「やつら」は人々を襲い、自らの病んだ体から迸る膿を浴びさせる。そうして、道連れを作ると、満足して、嗤いながら去って行くのだった。それは、病以上に厄介で凶暴で、慈悲の無い襲撃である。
それがこの村にも来るのか?
エスターは寝床に横になり、思いを馳せる。窓の外から梟の声が聞こえる夜半である。そうしたら、自分と父は、矢面に立ちこの村を守らねばならない。いままで幾度となく戦い撃退した山賊どもとはわけがちがう。自分は、死ぬのだろうか。エスターは初めてそう思った。
死ぬのは怖くなかった。幼い頃から剣士として育てられたのである。いつかこういう日が来るのは、ぼんやりとだが想像がついている。だからこそエスターは世界を愛していた。愛する世界のために、いつか死ぬ。そう思うと高揚感から空はいよいよ輝いて見えるというものだ。怖くは無かった。だが……。エスターはひとり布団の中でつぶやいた。
「やつらから感染されたとして、そのうえ死ななかったら?」
エスターは初めて身震いした。想像がつかなかった。ただただ恐怖と嫌悪感がエスターの心に靄をかける。死ぬのは怖くない、怖くないはずだが、だが……だが……。
いつしか眠りに落ちていたエスターが目を覚ましたのは、窓からなだれ込む明け方の光だった。……やけに眩しい朝日だ…寝ぼけながらエスターは身を起こし、そして、自分の間違いに気がついた。火の手だった。村の中心部が赤く燃えている。エスターは飛び起きて寝床の横に置いてある剣を握った。
山賊か?
だが、彼らが率いる獣の匂いはない。代わりに焦げた匂いとともに漂ってくるのは、微かな腐敗臭だ。
これは……これは……。
「やつらが来た……」
エスターは呟いた。夢の続きのようにぼんやりと口から漏れた。だが、つぎの瞬間、エスターは家を飛び出した。父のことを思い出したのだ。
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