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どれだけ刻が経ったのか……エスターはゆっくり瞼を開いた。
鋭い痛みが背中に走る。
自分が生きていることにエスターは驚愕した。だが、動けなかった。そして動かない自分の体が、なんともいえない腐臭を放つ膿に包まれている事に気づいた。
これは……。
エスターの意識は恐怖に覚醒した。自分の声とは思えない叫び声が、エスターの口からほとばしった。
「静かにしろ……動くんじゃ、無い……」
その口を押さえ込んだのは、ほかでもない愛する父の手だった。がっしりとした、なじみあるその手は、やけに冷たかった。見れば、父もあの膿に覆われている。傷だらけの全身の至る所に、あの腐った膿がまとわりついているのが分かった。そして顔は、青黒かった。
「……父さん……」
「いいか……俺の言うことを良く聞くんだ……」
そう言葉を継ぐ父の体はゆらゆら揺れている。必死に、倒れまいとしながら、エスターの頭上で父が言葉を繋いでいる事に気がつきエスターは言葉を失った。かまわず父は口を開いた。顔を苦痛にゆがめながら必死の形相で。エスターは父の言葉に聞き入るしかなかった。
「お前の体に放出されたやつらの膿は、俺がお前の傷口から吸い取った。だが、量が如何せん多かったな……俺の命を持っても吸いきれなかった」
「……!」
「俺はもう死ぬ。当たり前だな、お前に放出された、致死量のやつらの膿を吸い込んだんだ。急激に毒が体内にまわっているところだよ……今まさに」
「……とお、さん……」
「いいか、よく聞け。やつらは俺が倒した。だが、お前はやつらに感染された。心しろ、お前の体は疫病に冒された……。お前はもう元の体では無い。俺が毒を薄めたとはいえ、このままではいずれ死ぬ。だからだ、いいか、だけどだ、生きるんだ。生きるんだ。生き抜け。このまま黙って病に倒れるな。これは俺の命を引き換えにしたお前の運命だ。俺はいいんだ。お前を助けられたんだ。だが……エスター……どんな手段を使っても生き抜け……」
エスターは急速にか細くなる父の声にたまらず、飛び起きようとした。だが、動かない。動けない。動けないエスターの前で、どう、とついに父は倒れた。
「俺の娘……エスター……いいか、生き抜けよ……」
そして、父の姿と声はエスターの視界から消えた。父の声は、二度と蘇ることは無かった。
こうしてエスターの世界は黒く沈み、人の憂いに汚された。空は再び輝くこと無く、色を失い、風はただ背中の傷を冷たくえぐるものでしかなくなった。
傷が癒えた頃、エスターは村を辞した。もうここで役に立つことはないし、寧ろ病の身となったエスターは忌むべき者となったからだ。
その証に、その旅立ちを見送る村人はいなかった。
いつかの鷹が、空高く羽ばたきながら鋭く鳴いていた。
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