草茂る

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草茂る

 夏になると、この家は緑にかこまれる。そうなったのは、この家の住人が僕だけになってからだ。道として使っている地面は別として、耕すひとのいなくなった畑や、世話をしていたひとのいなくなった庭は、ひとの目というものを通して評されるとするならば、荒れていると言うほかはない。草木の根は土のなかで網となり、家屋を包囲している。  縁側に座って、冷蔵庫から持ち出したラムネの瓶を片手に、空を仰ぐ。さっきまで降っていた雨は上がっていて、空には虹が架かっていた。ぬるい潤んだ風も、針でつつくように脳髄を刺激してくる草いきれも、土から滲んで脚を這いあがってくる暑気の蒸れも、雨の名残だ。  蛍はあまいみずに誘われるという。そんな唄がある。だからというわけではないが、幼い頃は、夏になると樹木に砂糖水を塗りつけて昆虫を採ろうとした。たいてい何もかかっていなかったけれど、ある夏、あまいみずに虫がかかった。罠とも呼べないような罠を仕掛けていたのは、田畑のなかに島のように湧いている森で、そこには小さな祠があった。仰ぐような樹木のあつまりであるそこは、昼間であっても暗かった。麦藁帽子をかぶり、虫籠を提げて、数年前までは畑であったはずの草原を横切り、僕は森へと通っていた。この虫とりを始めたのは斜向かいに住んでいた同い年の友人で、一昨年までは一緒に遊んでいたのだけれど、今はいない。  ひとけのない集落は、静かで、青草が繁茂していた。  暗く、ひんやりとした森のなかで、罠をのぞく。そこには何もいなかった。昨日の夕立は激しかったから、砂糖のあまさなど流してしまったのだろう。  ささやかな落胆とともに面をあげると、樹間にひとりのこどもがいた。初めて見る顔だった。どのような顔立ちであったのかは今となっては曖昧で、濃い緑のなかにあって浮かびあがるような白い肌をしていたことだけが、漠然とした印象として残っている。 「虫とりか?」  こどものまとう和装に落ちた木漏れ日が、斑に揺れて、柄のようだった。 「そんなに驚いた顔をしなくていい。あまいみずに惹かれた虫だとおもえばいい」 「きみは虫かごには入らない」 「つかまえられないのは不満か?」 「だって、つかまえておかなければ、いなくなってしまう」 「さびしがりやだな」  押し黙った僕をあやすように、こどもはうたう。 「夏にあまいみずを置いておけ。気が向けば、誘い出されてやる」  ラムネの瓶を膝で挟み、玉押しでビー玉を押して、栓を抜く。空砲のような音がして、あまいみずが湧きあがる。溢れたしずくを滴らせる瓶を捧げて、空に透かす。水泡を弾かせる飲み物がとじこめられていた瓶の透きとおった碧は海を連想させた。  根づいていたものが去っていくこの土地は、その空隙を埋めるように、夏草を茂らせていく。 「呼んだか」  縁側に腰掛けたまま、僕はまっすぐに前を見る。あの森から草の根を伝って来たのだろう。微笑むこどもが庭先にいる。  雨上がりの空は晴れていて、溺れたくなるような澄んだ青をしていた。
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