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第三話 藪の中 ⑵
「夢の記憶、ですか……」
「はい。とにかくこの夢がなければ、少しは安眠できると思うんです」
センターに来る相談者は業務内容上、過去脛に傷を負ったり、奇妙な思い込みをしている人が少なくないが、今回樹が応対した人は取り分け変わった願いを持っていた。
「夢は二年間、毎晩見ているのです。最初はただ、追いかけられる夢でした。それが年々酷く……場面が進行してきているのです。私は毎晩追いかけられた相手に傷付けられ、刺され、最後には殺されるのです。」
「ふむ……。失礼ですが、傷付けられるというのは」
「ええ、お察しの通り、凌辱も含みます」
自分の発した言葉に刺激されたのか、相談者の葵はさめざめと泣きはじめた。ハンカチで拭う目の下には日焼けと見まごうほどの固着した隈があり、目の光も、苦痛を浴び続けて縮こまった眉間も、本来なら若さの力だけで蝶よ花よと可愛がられる世代の女性とは思えなかった。
「場所はここ二年同じですが、殺され方は毎回少しずつ違います。首を絞められたり、喉を刺されたり……。私は毎晩耐えられない息苦しさや、血の味のする息の中で目覚めるのです。そして一旦起きた後は、大抵うつらうつらとしか眠れません」
「不眠外来などには行かれましたか?」
「……はい。このままではいけないと思い、軽い睡眠薬や抗不安薬を処方してもらいました。でも、ダメでした。一度は良くなって、薬を減らしていたのですが、減らすとまた夢を見るんです。副作用で頭がぼんやりしているような時にも、その夢の手触りがやってくると、一日仕事が手に付かなくて」
葵はうなだれ、隣に座っている母親はそっと肩をなでた。相談者の家族が付き添いにやって来ることも、本人が未成年者でない限りあまりないことだった。
「夢を見る原理は今世紀に入ってもまだ解明されていません。脳の情報処理の為に夢を見るということは分かっていても、なぜそういう内容の夢を見る必要があったのか、夢の内容と脳の情報処理がどのように関係しているのかはよく分からないのです。夢の記憶だけを消しても、根本の原因をなんとかしないことには、シチュエーションは多少違えど、別の悪夢を見る可能性は否定できません」
「樹さん、私からもお願いします」
口を挟んだのは葵の母、佑布だった。
「とにかく、目先だけでもいい、葵には楽になってもらいたいのです。悪夢だけが彼女を苦しめているのです。葵は国家資格を取って念願の職についたばかりで、ここで歩みを止めさせてしまうのは忍びないのです」
樹と、カウンセラーの鵜飼とは顔を見合わせた。相談者二人ががんとして譲らないので、一度上層部に掛け合って、夢だけを消した場合、脳の機能に影響が発生し得るか検証してみるということになった。もちろん、樹と鵜飼の二人は上層部がクリアな解答を持っていないことは知っている。ほんの数日で出せる解答でもないことも。リスクを承知でこの仕事を受けるかどうかという、政治的な判断をするのに、日数が必要であるだけだ。そしてそれは、葵を半ば人体実験の道具にすることを、なるべくセンターの責任を回避する形で、本人に了解させるにはどうすればいいかの筋道を作る時間でもあった。
結局、葵と佑布はセンターの提示した条件を殆ど飲み、夢の記憶を消すことに同意した。揉めたのは費用面だけだった。「私/娘が研究対象になるのなら、そして再発がありうるのなら、正規の値段なのはどうか」というわけだった。センター側はしぶしぶ言い分を聞いて異例の値引きに応じたが、処置後、必ず定期的なカウンセリングを有償で受けることを約束させた。
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