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第三話 藪の中 ⑶
一か月後、初めてのカウンセリングで葵は上機嫌だった。
「あれからずっと夢は見ていません。毎日ぐっすり眠れています。本当に記憶を消して良かった」
本人が言う通り、死神もかくやといった目の下の隈は消え、うす茶色い瞳は照明を落としたカウンセリングルームでもきらきらと輝いていた。元々目鼻立ちが整っている方ではあったが、長年の悩みが解消されたことで、陰っていた魅力がぐっと引き出されているようだった。葵には結婚を前提に交際している恋人がいるということだったが、その恋人は彼女の変貌を嬉しがるより、むしろ他の異性に取られやしないかと不安になるのではないか。そんな無粋な想像をしてしまうほど、ハッとさせるものがそこにあった。それは自分の人生を目いっぱい生きているという確信と喜びに裏打ちされた美しさだった。樹は葵に気付かれない程度に、ふっと目を細めたが、これで終わりになるとは考えていなかった。
葵が別の悪夢に悩ませられるようになったのは、案外早かった。
「今度は川なんです」
前回とは舞台が違うだけで、「追いかけられること」と「最終的に殺されること」は前の夢とほとんど一緒ということだった。しかも二年かけて進行していった前回とは違い、最初から殺される夢だったという。葵自身は、再発したことは不幸だが、ある程度覚悟していたと言った。
「あの時は母の手前、強く言えませんでしたが」
毎晩の溺死の記憶は彼女を急速に憔悴させていて、食欲を失った彼女は頬がこけ、肌が黄ばんだせいで化粧とのミスマッチが目立った。輝く表情を見ていた分、今の彼女は前回以上に痛々しかった。
「なんだか妙なことになりましたねえ」
樹の独り言に、通りがかった鵜飼が反応した。
「樹さん、探偵をやっているようなものですもんねえ」
――本人が思い出せない記憶は消せない――これは現時点における技術の限界であり、センターが依頼を受ける際に説明する項目のうちの一つだった。この項目があればこそ、センターは葵の依頼を断ろうとしたのだ。葵にはなぜ悪夢を見るのか、その原因となる記憶にまるで心当たりがなかった。葵の再発はこの項目が正しいことを証明したようなものだった。
しかし一旦引き受けたものを、簡単に手放す訳にはいかなかった。鵜飼は月一回のカウンセリングを二週に一回に増やし、自分の経験を少しずつ引き出す取り組みを続けていた。同時に樹に対して、葵の学生時代の足跡を追うよう、上層部から命が下ったのだった。
「これも『研究』の一環なんですかねえ」
普段仕事に対して特段感想を述べない樹が、パートナーの鵜飼に対してということではあるにせよ、定期的にぼやくようになっていた……。
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