第一話 あなたはもういない ⑶

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第一話 あなたはもういない ⑶

 この記憶がもう五年も前のことだなんて信じられない。あの日の、雲一つない澄んだ青い空の色彩も、草と料理とかすかに彼の汗が混じった香りも、少し目の端に疲れが残る屈託のない笑顔も、今しがた過ぎ去ったことのように鮮明だ。これが私の頭の中にある記憶であったなら、とうに色も香りも深く沈んでしまって、彼の笑いじわが頬にどう陰影をつけていたのかも、あの小さな箱を持ったときに感じた手の汗がどのようだったかも、おぼろげにしか思い出せなくなっていただろう。  ここは、いつものように閑散としていた。館内はダークブラウンを基調にまとめられており、窓はあるものの、ロの字型の施設の中庭に面しているため、気休めの明かり取りにしかならない。点在する間接照明の効果もあって、日中でも夕暮れのような暗さと侘びしさだった。 「いつも、ありがとうございます」  私の座る豪奢な閲覧ソファの背後に、音もなく立ったのはこの施設のコンシェルジュだった。私の担当になっているであろう彼は五十代後半から六十代半ばといったところ、白いシャツに黒い蝶ネクタイに黒いパンツ、白い髪はきちんとなでつけられ、口ひげも左右に形よく作られている。上流階級の執事か上等な店のバーテンダーと言っても通る風貌をしている。 「ここにくるのは私のような変わり者だけみたいね」 「決して変わり者というわけでは。しかし、今の社会を生きるには、皆さん時間が足りないのでしょう」 「過ぎ去ったことを、自分から切り離すためだものね」 「世知辛いことですが。でも」  彼は、一旦言葉を切って 「他のことが手に付かないほどのつらい記憶を、抱え続けていけない人もいらっしゃいます」  五年前、私は両親に半ば引っ張られるようにしてこの館の門を叩いた。彼らはこのままでは私が死んでしまうと、本人の申請でなくてはと断ろうとする職員の肩を揺さぶって涙ながらに頼み込み、ほとんど放心状態の私にペンを握らせたという。当然、私はその時のことは全く覚えていない。ここの技術で記憶を消したのではなく、私の脳が拒否したのだと思う。  彼の存在を外部記憶に移したことで、なんとか人として生きていけるようになったと思う。だから両親には今では感謝している。食べ物に味が感じられるようになったし、朝の光を浴びて気持ちよく目覚め、仕事も以前のようにこなせるようになった。一年後、彼らは私の生活が十分安定しただろうと判断し、私をここに連れてきたのだ。この施設の存在は一般常識として知ってはいたが、まさか自分の記憶が貯蔵されているとは思っていなかった。何しろごそっと彼の記憶だけ抜かれているので、その一年間は彼の存在すら無かったことになっていたのだ。
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