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第一話 あなたはもういない ⑷
「変な気持ちなのよ」
膝に広げていた、本の形をした私専用の記憶保存装置を彼に渡すと、サービスで入れてくれた珈琲に口を付けながら言った。
「月一回、この記憶を見に来ているから、私には彼がいたことがわかる。でも、あくまで媒体を通じてなの」
「鮮明な映画を見ているようだと、おっしゃった方もいました」
「わかるわ。これは本当に私の記憶だったのかしらって。自分を壊すほど、大事な人だったはずなのに」
「本当に、よろしいんですね」
彼は、私がサインした書類の挟まったバインダーをもう一度こちらに差し戻し、再度念押しをした。
「ええ。私はきっと後悔するけれど、でも前に進まなければ」
私は書類を彼の方に押しやった。彼は先ほど受け取った私の本を、フロントの脇にある暖炉の中にうやうやしく置いた。私はマッチと呼ばれる赤い球体がついた小さな棒をこすりつけて火を現出させ、それを暖炉に投げ入れた。無論本当に火が出ている訳ではなく、データを消すのにただデリートボタンを押すのでは情緒がない、という創設者の考えで作られたものだそうだ。もっとも、マッチで火を起こしたこともないし、実物の火さえろくに見たことの無い私が、この演出によって彼か彼女の思惑通りに心が動かされたかどうかはよくわからなかった。
老コンシェルジュが言った。
「私は本来あなたの門出を祝うべきなのに、こんなことを言うのは不適切で、職務範囲を越えた行為だと思っています。ですが」
彼は私の方に手を差し出した。
「あなた様がもういらっしゃらなくなるなんて、寂しくなります。ここのことを忘れてしまっても、どうかお元気で」
私は彼の細く、骨張った手を握った。
「あなたも」
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