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第二話 私の記憶を消して ⑴
貴史がマンションの重たいドアを、重さ以上に億劫な気持ちで開けると、部屋の中から妻と三歳の息子、貴文の朗らかな声が聞こえてきた。
「おかえりなさい。早かったわね」
普段なら無言か、「中途半端な時間に帰ってきて」と小さく悪態をつかれるかだったので貴史は面食らった。促されてついた食卓は好物の煮込みハンバーグにポテトサラダ、冷奴にほうれん草のごま合え、わかめの味噌汁が並んでいる。
「さ、早く食べて食べて」
なんだか調子が狂う。かえでは料理の腕が良い。だから今日のおかずも昨日までと同じく美味しいはずなのだが、逆に味がわからない。この時間は風呂を嫌がって走り回る貴文を、かえでが怒号を振り回しながら追いかけるのがお決まりの光景だったが、二人はまだプラレールで遊んでいる。
「なんかあったの?」
貴史が意を決してかえでに訊ねてみたのは四日後だった。あの一日だけならまあそういう日もあるかという程度だったが、さすがに三日連続で新婚時のような応対を受けると、見過ごすことができないように思ったのだ。もしかしたら宝くじが当たったのか。あるいは離婚の決意を固めたのか。しかしかえでの答えは意外なものだった。
「私ね、三年分の記憶を消したの。貴文を産んでからの三年分」
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