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第二話 私の記憶を消して ⑶
「そう、やっぱり観なかったんですね」
後日、樹の本来のクライアントであるかえでが訪ねてきた。貴史が施設でどのような話をしたのか、本人が語ろうとしないので様子伺いにきたのだった。
「残念ですか?」
「いいえ。そうだろうなと思っていましたし、それに」
かえではガラスに仕切られたキッズスペースにいる貴文に手を振りながら、
「私でも切り離したいと思っている記憶を、あの人に観てほしいとは……」
「そうですか」
「自分の記憶を人に覗かれるのは気持ち悪いですしね」と淋しそうに微笑んだ。
かえではとにかく施設が壊されなくて良かった、もしあの人が現場作業の道具を持っていっていたらと心配していたのだ、と冗談めかしていい、貴文の手を引いて帰っていった。記憶削除にかかる決して安くはない費用を、彼女は家計からではなく、自分の貯金から払ったと言っていた。保育料を払いながら働くかえでにとって、自分が自由にできる金はそう多くないだろうに。記憶を消した後の彼女は少し痩せ、目の下の隈が少し薄くなったようだった。そう、有体にいえば美しくなった。
貴史が施設に再度やってきたのは、最初の訪問から二週間経ってからのことだった。建設会社で現場監督をしている彼は、作業着のまま施設にやってきた。濃ボルドーの絨毯は貴史の通った跡がはっきりと白かった。
「この委任状、まだ使える?」
「はい」樹はうやうやしくお辞儀した。
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