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第二話 私の記憶を消して ⑷
クライアントが最初の面談で感情的になるのは珍しくない。かえでもその一人で、彼女は何故記憶を消したいか説明する際、担当心理士の前でさめざめと泣いた。
「もうどうしようもないんです。私の記憶さえなければ、夫婦はうまくいくはずなんです」
「記憶がなければ、とは?」
「貴史が生まれてから、ずっと独りでした」顔を上げたかえでの目の周りはマスカラがよれて真っ黒になっていた。
「夜の授乳や夜泣き、オムツ替え。確かに言えばやってくれることはありましたが、あの人はずっと他人事でした。今ではそれなりに子供の面倒を見てくれます。私が仕事に復帰するので、家事もかなり分担してくれます。でも、あの時ずっと独りだった、助けを求めても聞いてはくれなかったという恨みが消えないのです。むしろ、貴文がある程度話せるようになって、オムツも外れて、世話が楽になったからって、今更関わって来られてもとか、育児のおいしいところだけ味わおうとしないでと思ってしまうのです。もう過ぎたことだ、忘れようと思っても、ふとした時に湧き上がってきてしまうのです。いつまでも恨みを持っていたくないんです。彼の為というよりは、私が楽になりたいんです。だから」
かえでは一気にまくしたてると、またハンカチで目を覆った。心理士は、後ろに控えていた樹と目配せをした。誰かの為に記憶を消したいというのは後々トラブルになることが多いが、現時点で本人がここまで整理できているのであれば、きっといけるだろう、という意味だった。我々がすることは、今は多少さざ波が立っている心を鎮めるだけだ、と。
「ただ、ご主人の記憶だけを抽出して抜くということはできませんが、それはご存じですか」
「はい、それも承知しています。子供の記憶がなくなるのは淋しいですが、ここに見に来ればいいと思っています。今ならきっと鮮明に残っているだろうから、ビデオ代わりだと思えば……。幸い仕事の方も、私は育休延長していたのでこの三年分を抜いても支障がないのです。逆に言うと、消すのは今しかないのです」
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