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「そのデザイン事務所にいたのが、さっきの先輩です。先輩は、インターンのわたしにも親切に指導してくださいました。進路に悩んでたわたしの相談にも乗ってくれて、わたしの絵を褒めてくれて、自信をつけてくださいました。インターンが終わる頃、先輩がうちの事務所に来ないかと言ってくださって、上にも掛け合ってくださって、結果、わたしは就職活動することなく仕事が決まったんです」
「いい人だったんだ」
「そうですね。優しくて、かっこよくて、憧れの人でもありました。……わたしも、いい人だと、思ってたんです…………先輩がわたしの絵を盗むまでは」
その瞬間、おかしなブレーキがかかり、車が揺れる。
「盗む……?」
ブレーキの直後、車はもとのスマートな運転に戻ったけれど、怪訝な神楽さんの声が、やけに大きく聞こえた。
「……ええ、盗まれたんです。わたしの絵が」
言葉では過去形にできても、気持ちはまだ過去形にできていなくて、
わたしは胸の傷痕を見ないフリすることで、心の均等を保とうとしていた。
「……去年の、クリスマス前の頃です。その日、先輩は出張で大阪に行っていて、帰りは二日後だと聞いていました。仕事が終わり、わたしは東京駅にいました。そうしたら、まるで映画みたいな偶然なんですけど、人混みの中、向こうから先輩が歩いてくるのを見かけたんです。予定が変更になって大阪から帰ってきたのかと、わたしは先輩に駆け寄ろうとしました。でも……先輩は、ひとりではなかったんです。女の人と、一緒にいました」
あのときの光景が、今も目の前に広がるようだった。
ここにはいないはずの先輩が、知らない人と一緒にいて………
「わたしがどうしたらいいのか分からずにいると、先輩は女の人と一緒に駅のカフェに入っていきました。どうしても気になったわたしは、思いきって先輩のあとをつけてカフェに入りました。『偶然ですね』そう声をかけるつもりで先輩の席に近付いたんです。そうしたら……」
今でも鮮明に覚えている。
先輩が、知らない女の人と向かい合って座っていて、その間のテーブルの上には……
「先輩のテーブルの上には、何枚もの絵があったんです」
「それは…」
神楽さんの言葉が、反応に困っているようだった。
わたしはゆっくり頷いた。
「……わたしの絵でした。全部」
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