うつろ祭りの海

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うつろ祭りの海

 今から二百年以上前、この村の浜辺に大きな「うつろ舟」が流れ着いたという。「うつろ舟」の中には若くて美しい女が乗っており、その女は腕に赤ん坊を抱えていた。女は浜辺に集まった村人に赤ん坊を差し出した。村長が歩み出て赤ん坊を受け取ると「この子をお願いします」と言い残して女は霧のように姿を消した。後には「うつろ舟」と赤ん坊だけが残された。村人たちは、「うつろ舟の女」を海の神の化身ではないかと噂し、社を建立して「うつろ舟」を御神体として大切に祀った。これが卯津呂(うつろ)神社の起こりである。創建以来、卯津呂神社に祀られていた「うつろ舟」は空襲で焼失したが、今でも「うつろ舟」が漂着したと伝えられる十月二十八日には「うつろ祭り」が執り行われ、毎年変わらぬ賑わいを見せている。 (「卯津呂神社縁起」より抜粋)  境内に据え付けられた灯籠に明かりが灯された。秋の一日を物寂しげな夕闇が覆っていく。いつもは時が止まったように閑静な神社の境内にも、今は安っぽく華やかな祭りの屋台が所狭しとひしめきあっていた。  夕刻になってから訪れる人がだんだん増えてきたようだ。神社の参拝の列に並ぶ親子連れや、友達とはしゃぎながら屋台をのぞき歩く子供たちの声が辺りの空気に楽しげにさざめいている。  神社にやってる人たちの中の幾人かは紙でできた小さな舟を手に持っている。うつろ祭りの夜、手製の小さな「うつろ舟」を神社の境内を流れる人工の小川に浮かべて流すと御利益がある。そう伝えられているのだ。卯津呂神社の小川は、市街地を流れる卯津呂川に注ぎ込み、やがて海に繋がる。  内木三五郎(うつきさんごろう)は境内の石垣に腰掛け、杖に両手をのせながら賑やかな祭りの様子をぼんやりと眺めていた。  彼にもかつて子供たちの手を引いて祭りの夜を歩き、屋台のお菓子やら玩具やらを買ってやった日もあった。毎年、家族で折り紙のうつろ舟を作り願いをこめて水に浮かべたものだ。  しかし、それも遙か昔に過ぎ去っていった日々だ。子供たちは既に独立してそれぞれ新しい家庭を持ち、五年前には妻に先立たれた。一人暮らしの寂しさを紛らわしてくれていた同年代の茶飲み友達も年を追うごとに一人、また一人とあちらに逝ってしまう。  祭りの賑やかさに当てられてかえって胸の奥に寂しさが募る。思わず三五郎は顔を上げ、自分の座る場所の隣にひっそりと佇む石の碑を見上げた。うつろ舟に乗っていたという、赤子を抱いた着物姿の女の姿が彫り込まれている。江戸時代に造られたと思われる碑はだいぶすり減ってはいるが、女のふんわりと優しげな面差しは今でもよく見て取れる。  三五郎にとっては子供の時から目にしてきた思い入れの深い石碑だった。この辺りが戦災で焼け野原になり卯津呂神社の本殿も焼失した時でも、この石碑だけがここにぽつりと残っていた。 ――昔はこの神社からすぐ目の前に海が見渡せた・・・・・・。  三五郎は遠い昔を思い出して目を細める。終戦後二十年経ってようやく卯津呂神社が再建された時には既に湾岸は埋め立て工事の真只中で、海は遠くなってしまっていた。うつろ祭りが復活したのもその時だ。戦争が始まる前、三五郎が子供だった時のうつろ祭りでは、神社の目の前の海の波打ち際に足をじゃぶじゃぶ洗われながら、木で作った手製のうつろ舟を波に乗せて流しに行っていたものだ。  お囃子の音が聞こえてきた。そろそろ盆踊りが始まろうとしている。  秋の盆踊りという趣向は五年ほど前から地域振興会というところの発案で始められた。年々カジュアルになっていく祭りの形態に三五郎は少なからず苦笑はするものの、地域の人が楽しめるものであればそれはそれでよいという思いもある。それに、元来はお祭り好きな三五郎はもっと若くて元気であれば自分も盆踊りを踊ってみたかった、と思ってみたりもする。今ではもう体の節々が痛み杖なしでは歩けないくらいなので到底無理な話なのだが。 「踊りにいきませんの?」  突然、耳元で話しかけられて三五郎はびくりと体を震わせた。横を見ると浴衣姿の若い女性が三五郎のすぐ隣に腰をかけて微笑んでいた。三五郎は目を瞬かせた。  美しく妖艶な雰囲気をまとった女だ。石碑に刻まれたうつろ舟の女の面差しに少し似ているような気がする。 「踊りましょう」  女は三五郎に顔を近づけてもう一度囁いた。 「いや・・・・・・私はもう歩くにも一苦労な案配でして・・・・・・踊るなんてとても」  三五郎はドギマギしながらはにかむように小さな声で答えた。 「そんなことおっしゃって」  女は、ほほほ、と笑い声をあげると三五郎の手をとって立ち上がった。すると不思議なことに、三五郎は杖なしで痛みもなく難なく立ち上がることができた。そうして、女に手を引かれるまま踊りの輪に入っていく。  女が三五郎の前で軽快に盆踊りを踊る。それにに合わせて、三五郎も手を打ち、くるりと回り、両手をあげて踊った。今まで思うように動けなかった体が羽のように軽くなり全身に力が漲っている。十歳・・・・・・いや、二十歳は若返ったような気持ちだ。  気がつくと三五郎のすぐ後ろでは、碁仲間の源次がひょうきんな仕草で腕を上げ下げしながら愉快に笑いながら踊っていた。 ――あれっおかしいなぁ。  三五郎は不思議に思って首を傾げた。 ――源ちゃんは一昨年、急に入院してそのまんまポックリ逝っちまったと思ったんだが。  灯籠の明かりが煌めく向こうを透かし見れば、踊りの輪には十歳くらいの子供達も混じっていた。 ――ああ、あいつら・・・・・・たあ坊、ちいちゃん、うっちゃん・・・・・・それに、まさ君もいる。  それは、三五郎の幼なじみや小学校の懐かしい同級生達だった。彼らは皆、かわいそうなことに空襲で死んでしまったのだ。  踊りの輪の真ん中で汗を光らせながら太鼓を叩いている青年にも三五郎は見覚えがあった。彼は三五郎が子供の時に近所に住んでいたにいさんだ。爽やかではきはきとした好青年で、三五郎をよくかわいがってくれた。三五郎もこのにいさんが大好きだったが、彼もまた戦争で南方の島へ行ったきり二度と帰ってこなかった。  死者ばかりの踊りの輪にあって、今夜は誰もが楽しげでとても幸せそうに見える。三五郎は胸が熱くなった。 「少し疲れましたわね」  女が振り返って微笑んだ。三五郎と女は共に踊りの輪から抜けた。  お囃子の音色と太鼓の振動を背中で聴きながら、参道の石段を二人並んで降りていく。気がつくと目の前には真っ黒な夜の海が広がっていた。そして、波間には参拝客が流した無数の紙のうつろ舟が、蛍のようにぼんやりとした橙色の光を放ちながらゆらりゆらりとたゆたっているのが見える。  浜辺に立って海を眺める二人の手はいつの間にかしっかりと握られていた。三五郎と女の指は愛おしげに、そしてもどかしげに絡まり合う。三五郎は空いた方の手で女の体を抱き寄せ、抱き締めた。  三五郎は先程よりもさらに若返り、自分が二十歳そこそこの青年になっているように感じていた。  三五郎と女の唇が自然に重なりあう。女の唇の温かさに三五郎は痺れるような、心地よい目眩を覚えた。  くくく、と女の忍び笑う声が夢のように耳の奥に反響してきこえる。 「きましたよ」  ややあって女がまた囁いた。 「うつろ舟がきました」  はっと我に返った三五郎が顔を上げるといつの間にか波打ち際に巨大な桶のような舟が出現していた。それは、卯津呂神社が空襲で焼ける以前に本殿に納められていたはずの「本物のうつろ舟」だった。 「さぁ、行きましょう」  女が三五郎の手を引いた。 「あの舟に乗るの? どこまで行くの?」  三五郎は女を見上げて尋ねた。三五郎は今や十歳くらいの子供の姿になっていた。 「海の向こうまで行くのよ。良い子にしていてね」  女は三五郎の頭を優しく撫でた。  二人はうつろ舟に乗り込んだ。うつろ舟は波の上をゆっくりと滑るように動き出した。舟の腹に打ち付ける波の音がちゃぷちゃぷと心地よい。大きなうつろ舟とともに、紙や木でできた小さなうつろ舟達も光を放ちながら同じ潮流に乗って大海の向こうを目指す。そして、無数のうつろ舟の灯りを映したように夜の空にも数多の星が散りばめられ煌めいている。 「ちゃぷちゃぷ・・・・・・ちゃぷ、ちゃぷちゃぷ」  三五郎は舟の縁に頬杖をつき、舌足らずな口調で波の音を真似ながら海の灯りと空の煌めきをいつまでも眺めていた。その三五郎の背を女がふんわりと抱き抱えている。  やがて夜が明けて大海原に光が射した。  青空の下、白い翼のカモメ達が三五郎を腕に抱いた女の周りにぎゃあぎゃあと飛び交う。カモメの喧しさに驚いた三五郎はアアア、アアアア、と体を反らせて大きな泣き声を上げた。女は、赤ん坊になった三五郎を揺すり上げてあやす。三五郎は女の優しげな声と腕の温かさにこの上ない安心感と幸福感を感じてすぐに泣きやんだ。女は腕の中の三五郎の顔を眺めながら、ほほほ、と声を上げて笑った。  うつろ舟はしばらく朝の海を漂った後、ある浜辺に打ち上げられた。  女は三五郎を抱えたまま浜辺に降り立った。幾人かの人間が女とうつろ舟の周りに集まってくる。  赤ん坊の三五郎は目を見開いて辺りの風景を見回した。よく見知った懐かしい浜辺のような気もするし、全く知らない異国の場所のような気もした。  女の腕の中から自分たちの周りの人間達をじっと観察する。日に焼けた赤黒い肌を持つ人達だ。漁師のようだった。そして、誰も彼も粗末な着物を身につけている。三五郎が生まれた時よりも遙かに昔の時代の人間達のように見えた。  その中から一人の白髪の翁が歩み出て、女に何かを話しけた。  女は翁に三五郎を手渡し、そして言った。 「この子を・・・・・・お願いします」  女の涼やかな声を聴きながら三五郎の意識は海の水に溶けるように曖昧に、うつろになっていった。
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