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お皿は何枚
一枚。二枚。三枚。四枚。五枚。六枚。七枚。八枚。九枚……
嗚呼……一枚足りない!
それは私が割ってしまった……旦那様が大切にしているお皿……。
一昨日、私が女中奉公をする秋山家の当主である秋山主馬様は、家宝の皿をよく磨いておくようにと私に言いつけて出掛けられた。
私は十枚の皿を一枚ずつ絹の布で丁寧に磨いた。滑らかな白地の上に牡丹や桜等が朱と金の線で繊細に描かれている。江戸中探してもこれほど美しい十枚揃いの皿を見つけることはできまい、と旦那様から聞いたことがある。
九枚の皿を滞りなく磨き終え、十枚目の皿を手にとった時だった。急に鼻がむず痒くなった。
くしゅん!と、くしゃみをした瞬間、私の手元が軽くなった。と思った時はもう遅い。
落とした皿は折悪しくも、皿を納めていた桐箱の堅い角にぶつかり……割れた。
カシャンという、拍子抜けするくらい軽い音。あの音が耳から離れない。
割れた皿は布に包んで私の行李の中に押し込んで隠した。まだ誰にも知られていない。
でも、旦那様は短気で怒りっぽいお方だ。皿の数が足りない事に気がついたら私はお手打ちにされるかもしれない。
嘘だったらいいのに……私がお皿を割ったことは全て「嘘」で、本当はお皿の数はちゃんと十枚揃っていて……
でもそんなことはありはしない。起こってしまった「本当」を「嘘」にするなんて。分かっている。分かっているけど、やはり何かに縋らずにはいられない。
どうか、どうか……「嘘」にしてください。どうか……
「お菊さん」
鈴を転がすような声がお菊の名を呼んだ。
目の前には、古風な着物を着た可愛らしい童子がお菊を見上げて立っている。頭の両側で髪をみずらに結って、灰青色の裾の長い衣を身につけており、首元には薄桃色の珠を連ねた首飾りが揺れていた。
これはきっと夢だろう、とお菊は思った。
「お菊さん、なぜ泣いていたの?」
真っ直ぐな目で童子はお菊に訪ねる。
「え?」
「泣いていたでしょう? 僕をお屋敷まで連れてかえってきてくれて、夜、布団の中で泣きながら僕を握りしめていたね」
お菊は昼間のことを思い出す。亀戸天神の鷽替えに行ってきて小鳥の鷽を象った木彫りの人形をもらってきたのだった。
鷽替えとは、初天神、つまり一月二十五日に天神様で行われる神事である。参拝者同士で鷽の人形を交換しあうことで今まであった凶事は全てウソ(鷽)になって吉事にトリ(鳥)かえられる、という縁起の良い行事だ。
藁にも縋る想いで手に入れてきた鷽を握りしめ、確かにお菊は、夜、布団を頭まで被ってシクシクと泣いていた。きっと泣きながらそのまま眠ってしまったのだ。
「じゃあ、あんたは……」
「そう。僕は鷽の精霊。天神様のお使いです」
童子は畏まってちょこんと頭を下げる。その様子が可愛らしくてお菊は思わず笑ってしまいそうになった。
「お菊さんの涙の理由を聞かせて。せっかく僕を頼ってくれたのだから出来る限り力になるよ」
可愛らしい見た目とは裏腹に鷽の童子の表情は真剣そのものだ。その優しさに、お菊は胸の奥が熱くなるようなありがたさと頼もしさを感じた。
お菊は秋山家の家宝の皿を割ってしまったことを鷽の童子に話した。
「でもねぇ、割ってしまったものを元に戻すことなんてできないわよねぇ」
「確かに、割れたお皿を元通りにするのは僕も無理だな」
「そうよね……」
お菊はしょんぼりとうなだれた。
「でもね、嘘のことを本当にして、本当のことを嘘にすることはできるよ」
鷽の童子は意味の分からない事を言った。お菊が怪訝そうな顔をしていると童子はまた続ける。
「本当と嘘って実はとってもアヤフヤなんだよ。沢山の人が本当だと思えば嘘も本当になるし、皆が嘘だと言えば本当のことも嘘になるんだ」
相変わらず不思議そうな顔をするお菊に鷽の童子はにっこり笑って言った。
「大丈夫。お菊さんは僕に願を掛けてくれたんだから。願いはちゃあんと叶えるよ」
どう考えても一枚足りない。
秋山主馬は眉根を気難しげに寄せてうなった。桐の箱の中に十枚納められているはずの皿は何度確かめても九枚しかなかった。
見つからないのは大輪の菊の花が描かれた一皿だ。
十枚の皿には、それぞれ異なる四季折々の花の意匠が表されていた。江戸でも名高い絵師に注文して描かせたのだ。かなり値が張った。だが、それだけ贅を尽くして作らせた皿は主馬の出世と秋山家の豊かさの象徴でもある。
主馬は客が訪れる度に十枚の皿を見せては、相手が感嘆する様子にいつも内心にんまりとする。
その皿が一枚でも欠けたとあっては主馬自身の恥でもある、と彼は考えていた。
「お菊!お菊はおるか?」
主馬は女中のお菊を呼んだ。三日前、彼女には皿の手入れを命じたはずだった。
お菊はすぐに来た。しかし、青白い顔でそわそわと落ちつかず、明らかに様子がおかしい。「皿の数が一枚合わぬ。お前が皿の手入れをした時は一枚も欠けずに揃っておったか?」
主馬の問いかけに、お菊は弾かれたようにその場にひれ伏した。
「申し訳ございません! あのお皿は……私が誤って割ってしまいました」お菊は肩を震わし泣いているようだった。
「それは真か?割った一枚はどうした?」
「割ったお皿は……どうしても言い出せず……私の行李の中に」
お菊が全てを言い終わる前に主馬は傍らに置かれた刀を手に取っていた。
「ひぃ……!」
お菊は顔をひきつらせて声になりきらない悲鳴をあげた。
銀色の刀身が光る。主馬は上から下へ斬り下げた。
お菊の首が体から離れて座敷に転がった。
「愚か者が……あの皿はお前の命よりも値が高いのじゃ」
主馬はお菊の死体を見下ろしながら舌打ちをした。
……い……いい……
不意に主馬の耳に何か耳障りな声が響いた。
主馬は足下を見てギョッとした。斬り落としたはずのお菊の首が口をぱくぱくさせながら何かをしゃべっているのだ。
「い……いい……いいちまぁああいいい」
呆然とする主馬の目の前で、お菊の口がぱっかり大きく開いて空気を震わすような声を出した。
「……にぃいいまぁあい……さんまああぁぁい……よぉんまああぁいい……」
お菊は大声で何かを数えていた。
カタリ。足下からまた音がした。カタカタカタ……。皿を入れてある桐の箱が小刻みに震えている。
「ごぉおおまあああい……ろおぉくまああぁぁい……」
ガタン! 大きな音と同時に九枚の皿が座敷に転がり出た。そして、皿は転がりながら主馬の周りをぐるぐると回り始める。
「なぁあなまぁぁああい……はあちまああぁぁぁい……」
皿の一枚一枚にはお菊の顔が浮かびあがる。
見ている内に九枚の皿は九つのお菊の生首に変わった。
「「「きゅうううまあああい……」」」
十の首が同時に声を出した。
主馬はすっかり腰を抜かしてしまい、もはや半泣き状態でへなへなとその場に座り込んでいる。
「「「いちまいいい……たりなあああいいぃぃ」」」
十の生首が上げる声が部屋いっぱいに反響した。
お菊の生首達は主馬の周りを跳ね回り、その輪をじりじりと狭めていく。
「やめてくれ……許してくれ……」
主馬は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願した。しかし、お菊の首は許さない。生首たちは口々に「いちまいたりない、いちまいたりない」と言いながら主馬に近づいてくる。
生首のひとつが主馬の首筋に噛み付いた。
「ぎゃあ!」
他の生首も次々に、主馬の腕や足や腹等、体中の至る所に噛みついていく。
「うわあああああ!!」
主馬は絶叫し……そこで目が覚めた。
朝日が障子紙を仄明るく照らしている。
「ゆ……夢か」
主馬は床の中から天井を見つめた。体中が寝汗でびっしょりだった。動悸がまだ収まらない。
部屋の外で、チチチ、と小鳥の鳴く声が聞こえる。
「お菊!お菊はおるか?」
主馬が呼んでいる声がする。
お菊は今にも逃げ出したい気持ちを抑えて主馬の部屋へ向かう。
昨夜は追いつめられ過ぎたせいか、鷽替えの人形が子供の姿になってお菊を励ましてくれる夢を見てしまった。でも、あの夢のおかげなのか今日は昨日よりも気持ちが大分落ち着いていた。
どんなに悩んでも一旦割れてしまった皿は元には戻らない。旦那様に正直に申し上げよう、とお菊は腹を括った。いくら気性の激しい旦那様でもお皿を一枚割った位でいきなり斬りつけたりはしないはずだ……多分。
部屋に行くと思った通り、主馬の目の前には例の桐の箱が置かれている。
お菊は両手をつき、背中を見せて座っている主馬に向かって深く頭を下げた。
主馬は何も言わずにチラリとこちらを見る。
「申し訳ございません!私……お皿を」
「お菊」
主馬がお菊の言葉を遮った。
「皿の枚数は九枚であったな」
「は?」
「この桐の箱には九枚の皿がきっちり揃っておる」
「……」
「皿の数は初めから九枚であった。それでよいな?」
そう言うと主馬はくるりと振り返ってお菊の方を見た。
主馬の顔はなぜかひどく青ざめていた。
お菊には訳がわからない。狐につままれた気分のまま女中部屋に戻った。
「お皿を割らなかったという嘘が本当に……いいえ、お皿を割ったっていう本当が嘘になった、ということ?」
お菊は呟いて、帯に挟んであった鷽の人形を取り出して眺める。
「なんだかよく分からないけど……助けてくれたみたいね。ありがとう」
お菊は鷽の頭を指先でそっと撫でた。
チチチ、と涼やかな小鳥の鳴き声がお菊の耳元でかすかに響いた気がした。
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