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Ⅰ.倉知編 「はじまり」
「俺、明日からお弁当持っていくんですけど」
そこまで言うと、加賀さんが布団の中で「可愛い」とつぶやいた。
「え、何がですか? お弁当が?」
「お弁当、うん。俺のもついでに作ってよ」
「邪魔じゃないですか? 食べられそう?」
「明日は大丈夫だと思う」
加賀さんの仕事は昼休憩の時間が明確に決められていない。職場に戻らず外で済ませることが多いし、食べる暇がない日もある。
だから普段は作らないのだが、単純に、職場で俺の作った弁当を食べてくれるのが嬉しい。言ってみてよかった。薄暗い寝室で、満面の笑みを浮かべてしまった。
「わかりました。じゃあ二人分作ります」
「わーい」
スリスリしてくるのが可愛くて、抱き寄せた。
「寝ますか」
「待った」
スタンドライトの照明を落とそうとする俺を、加賀さんが止めた。
「明日からそれ、外さないとな」
あくび混じりにそう言われたとき、それとは? 何を外すのか? と間抜け面で熟考し、思い至った瞬間に愕然とした。
「これか……」
左手の薬指に目を落とし、重苦しいため息を吐く。
「三年以上、ずっと着けたままなのに。もう体の一部だし、外れないかもしれません」
往生際の悪い俺の腹の上で、加賀さんが笑った。
「教育実習のとき外してなかった?」
「え? あ、そうですね、そうでした」
教育実習は期間が決まっているから、今回とは状況が違う。俺は明日からずっと、教師なのだ。
ペアリングではあるが、加賀さんは休日にしか着けない。最近は休日でも着けないことが多くなった。忘れているのか面倒なのかはわからない。着けてくださいと強要はしないし、なんで着けないのだと責める気持ちもない。
俺もきっとやがてそうなる。二人とも着けなくなって、静かに、思い出に変わる。
ベッドの上で左手を天井に翳し、はあ、と息を吐く。
ついに、このときが。
指輪を外すときが、きた。
初めて自分で稼いだアルバイト代で購入した、思い入れのあるペアリング。外すのは忍びない。
「つらい」
うめくと、俺の胸板に頭を乗せて、加賀さんがまた笑う。
「社会に出るってそういうことだよ」
真面目な口調で言ってから、よしよしと俺の腹を撫でて、「俺とお前の分身が、仲良くお留守番してると思えばほっこりしない?」と、フォローした。
「分身が仲良くお留守番……」
可愛い単語の連続にときめいていると、加賀さんが俺の体を下敷きにして手を伸ばし、ナイトテーブルの引き出しを開けた。
「はい、片付けようか」
指輪のケースを開いて、俺の前に突きつけてくる。
「なんか、離婚するみたいで抵抗が……」
「お手」
加賀さんが差し出した手のひらに、ほとんど本能的に右手を置いた。
「おかわり」
なんだか逆らえない。わかっていながら左手をのせる。
薬指を握られて、根元をぐいぐいと引っ張ってくるが、関節に引っかかってなかなか抜けない。
「あれ、しぶといな」
「痛い痛い痛い、指がもげちゃう」
「はは」
「はは、じゃなくて」
「あ、抜けそう」
関節を抜けるとあとは早かった。あっさりすっぽ抜け、途端に落ち着かなさに囚われた。
指輪のなくなった薬指を見て、愕然とする。寂しさと喪失感で胸が痛い。
「跡ついてる」
何もなくなった俺の薬指を、加賀さんが擦った。
黙って目元を覆っていると、「何? 泣いてる?」と手をどかして顔を覗き込んできた。
「なんか、心のパンツを脱がされた気分です」
「面白いな。じゃあ物理のパンツも脱がしていい?」
加賀さんの手が、下着の中に入ってくる。
明日は五時起きだ。初出勤だし、寝不足になるわけにはいかなかった。
キスをしながら、布団の中で、二人とも、下半身だけ裸になる。
無駄のない動きで準備を済ませ、繋がった。
加賀さんもわかっている。時間をかけられない。体中にキスをしたり、抱きしめ合ったり、見つめ合ったり、愛を囁いたり、する暇がない。
合わさった体を揺すり、快感のみを貪って、二人で果てた。
「こういうの、多くなるのかな」
独り言に近い俺の言葉に、加賀さんは聞き返さず、「あー」と同意の色を含んだ声を漏らした。
「時短プレイ?」
言ったあとに、心底眠そうなあくびをして、俺のふところに潜り込んでくる。
「ただの性欲処理にならないか、心配で」
「ないない、ならない」
即答した加賀さんが面白そうに続けた。
「百万回言ったけど、愛があるからセックスするんであって。性欲処理って感覚は倉知君に対しては抱いたことがない。性欲が湧いたから倉知君で処理するんじゃなくて、倉知君だから性欲が湧く。俺はね」
感動で、「はあっ」と変な吐息が漏れた。
「真理ですよね。目が覚めました」
「いや、寝ようよ」
「それより、百万回も聞いたかな?」
小さく吹き出して、笑わすな、と肩を震わせた。
「あの、俺も、加賀さんだから性欲湧きます」
加賀さんが手探りで俺の頭に手を伸ばし、すごく雑に撫で回した。
「愛してる」
「加賀さん」
キュンとして、ホッとした。
わかっている。環境が変わっても、俺たちの関係には、なんら影響がない。
「もしかして、すげえすれ違うかもしれないけどな。あ、メンタルじゃなくてフィジカルな」
「夜ご飯とか?」
「まあ早く終わったほうが作ればいいし、それに夜は絶対一緒に食べなきゃいけませんってわけでもないし、各自で外食だっていいんじゃない? 臨機応変にやってこうよ」
夜は絶対一緒に食べなきゃいけません、と反論しそうになって、飲み込んだ。自分ならいい。今までもそうだった。加賀さんの帰りが遅いとき、よほどのことがなければ食べずに待っていた。
でも俺の帰りを待って、加賀さんがお腹を空かせているのは可哀想だ。自分が待つ分には苦痛はないが、健気に俺を待つ加賀さんの姿を想像してみると悲しくなって、涙が出そうになった。
「なるようになるよ。いずれ慣れるし、それが普通になる」
その通りだ。悲観して、変化を恐れていても始まらない。
なるように、なる。
「平日にセックスする余裕なくても、土日にめちゃくちゃイチャつけば、解決」
まったくもってその通りだ。というか、今までも土日はめちゃくちゃイチャついている。
「それいつも通りですよね」
返事がない。
寝息が聞こえてきた。素晴らしい寝つきのよさだ。
笑って目を閉じる。
いつの間にか心が軽い。
眠ることにした。
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