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Ⅲ.倉知編 「プライベートの時間」
浅見先生の車は、トヨタのなんとかという赤いスポーツカーだ。二人乗りだから、親近感を覚える。車に対して頭を下げ、次に浅見先生に一礼した。
「よろしくお願いします」
「はい、礼儀正しいね」
車に乗り込み、シートベルトを締めると浅見先生が言った。
「適当に個室の居酒屋でいいかな?」
車なのに居酒屋を提案するのは、浅見先生が下戸だからだ。飲み会はいつもソフトドリンクかノンアルコールの甘いカクテルだ。
「はい、どこでも。あの、ちょっと一件連絡を入れてもいいですか?」
「どうぞ」
「浅見先生は、奥さんに連絡しましたか?」
浅見先生は自分のことを語らない人だったが、他の教師や生徒との会話から、既婚で子どもはいないということはわかっていた。
「ああ、今奥さん日本にいないから」
「え? どちらに?」
「ニューヨーク」
冗談かなと思ったが、測りかねた。浅見先生は冗談を言うことはあるが、顔に出ないからわかりづらい。
「ニューヨーク……、すごいですね」
「うん、すごいね」
他人事な口ぶりで言って、エンジンをかけ、ハンドルを握る。奥さんがなんの仕事をしているのか、突っ込んで訊く雰囲気でもない。それ以上何も言えなくなった。
車が動き出すと、俺はスマホを取り出した。
七時十二分。通知は何も届いていない。ということは、加賀さんはまだ仕事中だろう。
俺たちには四月から取り入れた新ルールがある。
仕事が終わった時点で連絡を入れること。そうすることでどちらが夕飯を作るかの心づもりもできるし、お互いの帰宅時間が大体わかるので、便利だ。
LINEのトーク画面を開き、「か」と入力すると、画面下に予測変換が出た。
加賀さん、加賀さんは、加賀さんが、と加賀さんがずらりと並んでいる。俺は本当に加賀さんばかりだなと微笑んだ。そっと、「加賀さん」を撫でると、続いて「好きです」が予測変換のトップに出る。
加賀さん好きです、と打たざるを得ない。
送信してから、改めて文章を作成する。
『お疲れ様です。今日は浅見先生と話があるので、外で食べてきます。突然ですみません。』
送信して、しばらく画面を見ていたが、既読はつかなかった。仕事が忙しいのだろう。
「浅見先生」
スマホを握りしめて運転席の浅見先生を見た。
「プライベートの話になっても大丈夫ですか?」
浅見先生は前を見たまま「うん」と小さく返した。
「というか、俺はこう見えて倉知先生に興味津々だよ。いいの? いろいろ訊いても」
「はい、セクハラで訴えたりはしません。逆にセクハラになってしまったら本当に申し訳ないです」
「倉知先生ってたまに面白いこと言うよね」
面白いと言いながら、浅見先生の横顔は変化がない。表情でつかめないが、声色から多分、この状況を楽しんでいるようだった。
この人に、全部話そう。と思った。
受け入れて貰えるかどうかはわからない。
話している最中でも、受け入れられているのかわからなかったが、止めなかった。
居酒屋の個室で向かい合い、料理とビールには手をつけず、正座をして、浅見先生の目を見て、全部話した。
すごく、大切な人がいる。一生、離したくない、大切な人。
高校生の頃に出会った十歳上の男性と、恋をして、一緒に暮らしている。
一言で言えばこれで済む。
でも、順を追ってつぶさに語った。浅見先生は俺から目を話さず、腕を組み、一切口を挟まずに最後まで聞いてくれた。
「大学生のとき、友人に知られて、反対されました。教師になるなら別れたほうがいいって。でも俺は、同性と付き合ってるからって教師になれないのはおかしいって、突っぱねました」
橋場の主張は正論だと加賀さんが言っていた。確かに世間一般の、代表の声かもしれない。
俺はそれと戦う覚悟を持って、教師になった。
「いざ教師になってみると、ちょっとだけ、不安になってきたというか……、揺らいでます。もし、知られたときに、どうしたらいいのか……、あの、もしかして先に学校側に話すべきなんでしょうか。どうすればいいのか、浅見先生に助言をいただきたくて」
声が掠れ、喉を押さえた。喋り続けているせいだ。
「まあ、ビールでも飲んで」
浅見先生がほとんど氷の溶けたカルピスソーダのグラスを持ち上げて、口をつける。ビールは泡が消え、温くなっていたが、喉は潤った。半分ほど一気に飲んで、ジョッキを置く。
テーブルにジョッキの水滴が落ちて、底の跡が円になって浮かんでいる。それを見つめながら、顔を上げることができなくなっていた。
本当に、言ってもよかったのだろうか。
「話してくれてありがとう」
浅見先生が言った。恐る恐る顔を上げると、「とりあえず食べようか」と箸を翳した。
「は、はい、いただきます……、あの、浅見先生」
ほっけの身をほぐしながら、浅見先生が「はい」と返事をする。
「引きましたか? 気持ち悪いとか、その、大丈夫、でしょうか。男同士に嫌悪とか……、あの、俺は男が好きなんじゃなくて、加賀さんだけが好きなので、だから浅見先生は安心して欲しいというか」
浅見先生はほっけをほぐしながら、ブツブツ言う俺を止めた。
「大丈夫、わかるよ。健気で可愛いなとは思ったけど、なんにも気持ち悪くないよ」
「かわ、可愛いですか?」
「あ、今のセクハラかな」
滅相もない、と首を横に振る。
「恋愛は千差万別。俺はそういうので個人の評価は変えない。あなたは頑張ってるし、いい教師だよ」
カチカチ、と音がした。自分の持っている箸が、皿に触れて音を立てている。手が震えていることに気づき、箸をゆっくりと置いた。
「泣きそうです」
両手で顔を覆い、腹の底から安堵のため息を吐き出した。ふ、と浅見先生がかすかに笑った雰囲気を感じ取り、慌てて手をどけたが、残念ながらそこにはいつもの無表情があるだけだった。
気を取り直し、箸を持ったところで、テーブルの上の携帯が震えた。通知が見えた。加賀さんだ。
「見たら?」
「いえ、失礼なので」
「ここは学校じゃないし、業務外なんだから。脚も崩して。ほら、それ、加賀さんからじゃない?」
浅見先生の口が「加賀さん」と発音したことに謎の衝撃を受け、体がびりっと痺れた。
「あ、あれ、俺、加賀さんって、名前出しました?」
「言ってたよ、さっき。加賀さんだけが好きなのでって」
ぶわっと汗が噴き出して、首から上が瞬時に熱くなる。
「赤い」
浅見先生がつぶやいた。
「とりあえず、加賀さんに返事しないとね」
「……はい、すいません、ありがとうございます」
なんだろう、この恥ずかしさは。浅見先生が「加賀さん」というたびにいちいち体がびくついてしまう。冷やかされているわけでもないのに、落ち着かない。
あわあわしながらLINEを開く。
『今仕事終わった。おつかれ。倉知君はまだ外? 帰ってくるの遅い? めっちゃ寂しいけど俺もなんか外で適当に食って帰るわ』
読み終わると同時に、新しいメッセージが下に現れた。
『倉知君好き』
可愛い。一人だったらにやにやしているか、スマホを抱きしめている。
浅見先生の視線を感じる。
頬の内側を噛んで平静を装い、返信を打つ。
『すいません、まだ外です。遅くなるかもしれませんけど待っててください。』
すぐに既読になり、「おう。一緒に風呂入ろ」と返ってきた。息を止めて、奥歯を噛む。
「加賀さん、なんて? 大丈夫?」
ご飯茶碗を持ち上げて、浅見先生が訊いた。
「大丈夫です。仕事終わったから、ご飯食べて帰るとのことです」
「ああ、まだ食べてないなら呼んだらどうかな」
「え?」
「ここに」
サラダを取り分けながら、浅見先生が平然と言った。
「なん、え、なんでですか」
「ここ、居酒屋だけど料理美味しいし」
「いえ、そうではなくて」
「話聞いてたら、加賀さんを見たくなったんだ」
サラダを盛った小皿を俺の前に置いて、はたと目を上げた。
「あ、これパワハラ?」
「いえ、そういう圧は感じてません」
浅見先生に加賀さんを会わせたい気持ちがある。
でも、落ち着かない。
どんな顔をしていればいいのかわからないし、何かやらかしそうで怖い。
「あくまで個人的にだよ。上司としてじゃなくて、ただの浅見さんが加賀さんと会ってみたいなってだけ」
会いたいと言ってくれるのが、嬉しかった。
加賀さんにはよく浅見先生の話をしている。いつか全部話したいとも言ってあった。そのいつかが今日だとは、加賀さんも思ってはいないだろうが、浅見先生と会うことはやぶさかではないはずだ。
「遠回りなら無理にとは」
「いえ、この店、自宅の近くです」
実家からもマンションからも近いおかげで、ここは行きつけの店だ。
「軽い感じで訊いてみてよ。浅見先生がご一緒にどうですかって言ってるって」
「……わかりました」
深呼吸してからスマホを持ち上げた。
加賀さんは、運転中は絶対に携帯を見ない。もし運転中なら既読はつかないし、その場合は縁がなかったということだ。
経緯は省いて簡潔に、浅見先生がご一緒にどうですかとおっしゃっています、とだけ送ってみた。既読がついたのは三秒後。「マジか(笑)」と短く返ってきた。
『話したの? 大丈夫だった?』
はい、と素早く返す。
加賀さんは俺を信頼している。学校側にはバレないようにしろとか、誰にも言うなとか、悪いことを隠すみたいなスタンスじゃない。
もう子どもじゃないんだし、いつ、どのタイミングで誰に明かすかは任せると言われていた。
『どこの店?』
加賀さんが、来る。自然と背筋が伸びた。
『あそこの居酒屋です』
『掘りごたつ?』
『はい。です。一番奥の個室です』
妙な緊張で頭が回らず、店の説明すらまともにできないのに、「あそこの居酒屋」で通じるのがすごい。
『了解。じゃああとで』
『はい。運転気を付けて』
『うい』
駆け足でトークを終わらせると、スマホの画面を暗くして、うなだれた。LINEをしている間ずっと浅見先生が俺を見ているらしかった。手の甲でひたいの汗を拭う。
「来るそうです」
「そう。よかった」
頭を抱えて「どうしよう」とうめくと、浅見先生が笑いを含んだ声で訊いた。
「どうかした?」
「だって、俺、加賀さんがいると頭の中が加賀さんだけになっちゃって、ちょっと、その、お見せできないというか、変なこと言ったりやったりしかねないので、今のうちに謝っておきます。本当にすいません」
ぶふ、と込み上げたみたいな笑い声が聞こえた。顔を上げる。浅見先生が、笑っていた。歯を見せて、楽しそうに笑っている。
「そうか、そういう感じになるのか。プライベートの倉知先生、新鮮で面白いな。幼いっていうか、やっぱり可愛いのかな?」
「は、はあ……、あの、浅見先生、笑ってるとこ初めて見ました」
感動で胸を押さえると、浅見先生が笑顔のままでカルピスソーダのグラスを持ち上げて、首を傾げた。
「これアルコール入ってる? 酔ったかな」
「えっ、大丈夫ですか?」
慌てる俺を見て、さらに浅見先生が笑う。
「倉知先生が全部さらけ出してくれたから、俺も素顔を見せられたのかな。プライベート解禁ってことで」
浅見先生はカルピスソーダを飲み干すと、からのグラスを置いて「本題に入ろう」と真顔に戻った。
「本題?」
「これは個人の意見だけど。学校側に言う必要はないかな」
自分で質問したことをすっかり忘れていた。掘りごたつに下ろしていた脚を正座に戻し、「はい」とうなずいた。
「中にはそういうの気にして自分から言う教師もいるけど、学校側は持て余すだけ。個人の性的指向はデリケートな問題だからむしろ触れたくないだろうね」
「……わかりました」
語尾が、安堵のため息と混じり合った。息をついて、太ももの上で握りしめていた両手の拳を解く。
「仮に校内に広まったとしよう。男と同棲してるからって、教師辞めろなんて誰も言わないし、言ったそいつに非難が集中するのは明らかだね。今はそういう時代だから。ただ」
言葉を切った浅見先生が箸を伸ばして唐揚げを一切れ摘む。
「不安なのはわかるよ。すごくわかる。あることないこと言われたり、相手に迷惑かかるんじゃないかって、怖いよな」
俺は目顔で同意した。そうなのだ、巻き込むことが、何よりも怖い。
「わかる。俺もあったよ。好き勝手言われたこと」
「え? 浅見先生が?」
「うちの奥さん、元教え子なんだよ」
なるほどと思った。どういう目に遭ったのか、何を言われたのか、想像できる。
「在校中に手ぇ出してたんだろうとか、淫行教師とか散々言われたよ。付き合いだしたのは卒業後の同窓会だし、別にねえ、許してくださいよって話なんだけど、当初はまあ、汚いものでも見るような目で見られたね」
「ひどい」
憤る俺を見て、浅見先生は眉を下げた。
「真面目にやってれば、見てくれる人は必ずいる。倉知先生は大丈夫だよ。味方はきっと多い。俺もいるから、心配しないで」
「ありがとうございます」
土下座のつもりで頭を深く下げると、ひたいにテーブルがぶつかった。
「痛い」
はははは、と豪快に笑う浅見先生が、箸の先を突きつけてくる。
「倉知先生、食べないの?」
「ちょっと、緊張で食欲が……、食べます」
サラダを口に放り込む。不安は解消したが、今から加賀さんがやってくる。俺は普通でいられるだろうか。浅見先生に醜態をさらすわけにはいかない。
「あ。あの、もう一つ相談があるんですけど」
思い出して、再び箸を置く。浅見先生が二つ目の唐揚げをつかんで、俺を見る。
「なんでしょう」
「いまだにいろいろ、個人のことを訊いてくる生徒がいて」
「ああ、ファンクラブの子」
「どう対処したらいいでしょうか」
浅見先生はうーんとうなりながら唐揚げを頬張って、飲み込んでから口を開いた。
「倉知先生は個人情報をかたくなに守りすぎてる。好きな食べ物とか好きな芸能人とか、血液型、誕生日、身長、体重、趣味とかなんかその辺、女子が喜びそうなネタくらいは提供してやればいいと思うよ」
「なるほど、わかりました」
次に持田に何か訊かれたら、教えよう。
それからは学校の話をしたり、浅見先生のプライベートを聞き出したり、楽しかった。見たことがない表情も見られたし、距離が縮まった気がする。
会話に夢中で、すっかり忘れていたというより、気が逸れていた。
襖の向こうから「お連れ様がお見えです」と店員の声がかかると、俺の中は瞬時に加賀さんで埋め尽くされる。
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