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Ⅲ.倉知編 「打ち解ける」
加賀さんが入ってきた瞬間、空気が変わった。
毎日見ているはずなのに。
今朝会っているのに。
感動と興奮があった。
加賀さんは、美しい。
俺を見てふわりと笑う。キラキラと星が飛び散り、可憐な花が舞う。
「こんばんは」
加賀さんが会釈すると、浅見先生が尻ポケットに手を突っ込みながら立ち上がる。
「こんばんは。急にお呼び立てしてすみません。学年主任の浅見です」
浅見先生が財布から名刺を出した。名刺を渡されることを予見していたかのようなスムーズな動作で、加賀さんが素早く懐から名刺入れを取り出した。
名刺を交換しているだけなのに、カッコイイ。
急いで腰を上げた。
スーツの加賀さんが名刺交換をしている光景は、今後見られるとも限らない。スマホで動画撮影したいところだが、我慢した。目に焼き付けておこう。
「お誘いいただいてありがとうございます」
「ああ、高木印刷さん。お世話になっております」
名刺に目を落とした浅見先生が言った。
「え?」
驚いて声が出た。二人が俺を見る。
「あの、うちの学校、高木印刷さんと取引が?」
「知らなかったの?」
浅見先生が俺と加賀さんの顔を見比べた。
「ごめん、いつ気づくかなって、面白いから黙ってた」
「面白いって」
加賀さんらしいと言えば、らしい。
「担当は原田だし、俺が出向くことはないけどね。なんも知らなくて原田と学校で出くわしたら面白いだろ?」
「面白いですけど、あの、原田さんが来られないときは加賀さんが代わりに来る可能性とかは?」
うずうずしながら訊いた。
「まあ、可能性はある」
加賀さんが、いたずらっ子の顔で笑う。
すごい。職場に、加賀さんが来る可能性がある。
一緒に住んでいても、外で会うのが嬉しい。想像だけで気分が高揚して、幸せになってしまった。
「倉知君、なんで立ってんの?」
「えっ」
自分の下半身を確認すると、加賀さんと浅見先生が同時に吹き出した。
「お約束やめろ」
加賀さんが俺のふくらはぎを軽く殴った。二人ともいつの間にかテーブルに着いていて、俺は一人、取り残された状態だった。加賀さんの隣に、いそいそと腰を下ろす。
「倉知先生、下ネタもイケたのか。万能だね」
浅見先生が真顔で感心したように言って、加賀さんにメニューを手渡した。
「天然なんですよ」
加賀さんが柔らかい口調で言うと、浅見先生が同意した。
「ああ、それだ、天然だ」
「学校でもこんな感じですか?」
浅見先生が俺をちら、と見てから、無精髭の生えた顎を撫でさすりながら、言った。
「やる気に満ちていて、真面目だし、生徒からも教師からも評判ですよ。たまに抜けてるところが隙になってるというか、愛されキャラです」
「なんか、目に浮かびます」
加賀さんが誇らしそうに俺を見た。優しい目だ。にこ、と微笑まれ、胸いっぱいに甘い快感が広がった。口元をむずむずさせ、照れ笑いを返す。
「倉知君、めっちゃ頑張ってるもんな。偉い偉い」
反射的に頭に伸びかけた加賀さんの手が、背中に回り、ポンポンと労ってくれる。
「加賀さん、なんかお母さんみたい」
「はは、うん、母の気持ち」
なんとなく、三者面談をしている気分だ。加賀さんが俺を見る目は、母のそれと似ている。たまに、こういう目で俺を見る。家族の愛に近いような、というか、まさにそれなのだ。
「あー、あの、名刺渡しといてあれですけど、加賀さんをお呼びしたのは俺の個人的な興味ですし、倉知先生の上司としてではないですよ。ただ見たかっただけなんで」
浅見先生が頭を掻いて弁解する。加賀さんは「はい、大丈夫です」と柔らかい表情で相づちを打つ。
「いや、びっくりしました。本当にこんな人いるのかって」
びっくりした様子はなかったが、浅見先生が加賀さんの顔をまじまじと見てうなった。
「倉知先生が話盛ってるのかなと思ってたんですよ。惚れた贔屓目もあるだろうって。でも実際会ったら予想以上に加賀さんが加賀さんで」
「ん? はい、え? 倉知君、俺のことどう話したの?」
ありのままの加賀さんを、自分の持ちうる語彙力を総動員させて表現しただけだ。
「真実のみを語ったことを誓います」
「なんだよ、なんか怖いんだけど」
加賀さんが俺の腕を肘で突き、メニューを手渡してくる。受け取って、元の位置に戻してから呼び出しボタンを押す。
「今日はローストビーフ丼ですか?」
「うん、前回海鮮丼だったしな」
「あれ、この店、よくいらっしゃるんですか?」
浅見先生が訊いた。
「駅も近いし美味いし会社の連中ともしょっちゅう来てます。倉知君の実家も歩いていける距離だし。な」
加賀さんがネクタイを緩めながら同意を求めた。
「はい」
心ここにあらずの「はい」になってしまった。
だって、膝同士が、触れている。テーブルの下で、加賀さんがわざと膝頭をくっつけてくるのだ。
「お互いの家族公認というのも心強いですね」
浅見先生が言うと、加賀さんが深くうなずいた。
「それ、ほんと、そうなんですよ。倉知家全員めちゃくちゃいい人たちで。救われてます」
「加賀家も最高です」
思わず口を挟むと、加賀さんが「ははっ」と声を弾ませて笑った。
「サンキュ」
あまりにもカッコイイ大人びた笑顔を向けられて、「ひー」と悲鳴を上げて目を覆った。
「どうした、何それ」
「カッコイイ顔で見ないで」
「お前さては酔ってんな?」
ふはははは、と笑ったのは浅見先生だった。
「もう駄目だ、完全に倉知先生の見る目変わった」
「あっ、あの、違うんです」
何も違わないが、一生懸命何かを否定した。もうわけがわからない。もはや酔っているのかどうかも自分ではわからない。
「浅見先生、よかったら学校での倉知先生のこと、いろいろ教えてください」
「はい、勿論」
この状況はなんだろう。加賀さんと浅見先生が、俺について語っている。
人生でもっとも大切な人と、職場でもっとも尊敬している人。交錯するはずのなかった二人が、同じ場に居合わせている。こんなことがあるのか。夢の中にいるような、ふわふわした感覚で、二人を見つめた。
くすぐったさが、心地いい。すごく、嬉しくて、顔が笑う。
これは多分あれだ。六花がよく使う「推し」という表現を用いると、しっくりくる。
推しと推しが邂逅を果たしたのだ。
酒もないのに、二人は懇々と話し続けた。ずっと俺のことばかりで、よく飽きない。飽きもせず二人を見ていられる自分を棚に上げ、感心した。
「あ、もういい時間ですね」
加賀さんが腕時計を見て言って、わずかにグラスに残っていたウーロン茶を飲み干した。
「倉知君、眠たい? なんかすげえボーッとしてるけど」
「いえ、平気です」
目を見開いて眠くないアピールをしたが、加賀さんと浅見先生がほのぼのとした笑みを浮かべて俺を見る。
「明日も仕事だし、そろそろお開きにしますか。加賀さん、今日はありがとうございました。ここは奢らせてください」
言いながら、浅見先生が素早く伝票をつかんで腰を上げた。
「こちらこそ、ありがとうございます。じゃあ、今回はごちそうさまです」
奢りたがりの加賀さんが、伝票を狙っていることはわかっていたが、素直に身を引くとにこやかに笑って頭を下げた。
会計を済ませ外に出ると、駐車場にほとんど車は停まっていなかった。もう時間も遅いし、居酒屋に車で来る人は多くない。離れた場所にぽつんと二台だけが、街灯の下に取り残されている。
「おっ、MR-S」
加賀さんが浅見先生の車に歩み寄り、感嘆の声を上げた。
「すげえ、フルエアロ、渋いですね」
「でしょう、いいでしょう」
「あー、やっぱオープンいいな。俺も次オープンにしようかな」
「あのZ、加賀さん? 塗装がめちゃくちゃ美しい。大事に乗ってるね」
ホイールがどうとかマフラーがどうとか、二台の車の周りをうろうろと行ったり来たりしながら、下を覗いたり、運転席に乗り込んだり、楽しそうにしているのを遠くからにこにこしながら眺めた。
俺の自転車は何段変速だぞと自慢し合っている少年たちを彷彿とさせた。なんて可愛らしい二人だろう。
俺は車のことは全然わからない。加賀さんが乗っている車がフェアレディZということはわかるし、街で走っているのを見かけたら咄嗟に叫ぶくらい、形として認識はしている。排気音を当てられるほどに熟知しているが、他の車はほとんどわからない。
「楽しそうでしたね」
十分か二十分か。はしゃぐ二人を見守っていると、あっという間に時間が経った。浅見先生と別れた車中で思ったまま言うと、加賀さんが「ごめん」と謝った。
「倉知君のことほったらかしてた」
「いえ、大丈夫です。二人が打ち解けてくれたのが、嬉しかったです」
「浅見先生、いい人だね。なんか楽だし」
俺が浅見先生に対して抱いた第一印象とまったく同じ感想だ。
「ちゃんと話せて偉かったな」
労いの言葉をかけられ、喉が詰まる。シートに体を預け、息をつき、目を閉じる。
「はい……、ほんと、話せてよかったです」
浅見先生は、指導教官かつ学年主任で、部活動の顧問と副顧問という関係でもある。教師生活で誰よりも身近な存在だ。
彼が受け入れてくれなかったら。きっと、絶望していただろう。
大学は四年間という期限があるが、教師はずっと続く。転勤で学校が変わったとしても、一生の仕事だ。
職場の誰にも言わずに教師を続けることは可能だろう。
でも、本当の自分を隠しているような罪悪感というか、しこりは常に感じていなければならない。
たとえば「彼女」と言われたときに、スルーしつつも心のどこかで引っ掛かり、モヤモヤが蓄積されていく自覚はある。「彼女」じゃないと知っていてくれる人がいれば、孤独や不安は確実に薄れ、息ができる気がした。
上手く言えないが、浅見先生が浅見先生で、よかった。
「加賀さん、抱きしめさせて」
帰宅後、約束通り一緒に風呂に入った。シャワーを全身に浴びながら、加賀さんが無言で両手を広げた。
美しい裸を、丁寧に抱きしめる。
「明日から、また一段と気を引き締めて頑張ります」
「ん、頑張れよ」
「加賀さん、好きです」
「はは、うん。あれさ、予測変換、セットで好きが出るよな」
「そうなんです。俺のスマホ、加賀さんが大好きみたい」
「俺のスマホも倉知君大好きみたい」
加賀さんとの会話で、主語を省いた会話が成り立つ瞬間が、好きだった。長くそばにいた。膨大な時間を共有した、証だ。
笑い合い、抱き合ったまま、シャワーの下でどちらからともなくキスをする。
離れていくのは早かった。もう日付も変わりそうだし、今日はしないのだと悟る。
残念な気もしたが、昨日もしたしなと明日に望みをかける。
明かりを消した寝室。
布団に潜り、加賀さんの手を探り当てると握りしめた。
「週末、久しぶりにデートしない?」
あくびまじりに加賀さんが言った。デートという響きに、胸がキュンと高鳴った。
「します」
「あ、仕事は?」
「大丈夫なようにしておきます」
土曜日は部活があるが、あくまで浅見先生のピンチヒッターでしかない。希望すればコーチのようなことはさせてくれるが、浅見先生は俺を休ませたがる。甘やかしているわけじゃない、これは温存だと言われ、なるほどと納得した。
「ハルさんがハガキくれたの、見た? 昨日届いてたやつ」
「いえ、見てないです」
「個展っていうか、写真展、やるんだって。俺らの写真もあるし、二人で観に来いってさ」
いつか写真展を開くとき、写真を使わせて欲しいと言われたことがあった。ハルさんらしい、冗談めかした言い方だったから本気にはしていなかったが、もし実現したら素敵だなとは思っていた。
「すごい、ついに……。写真展、観たいです」
「うん、楽しみだな」
暗闇の中で、加賀さんの静かな声が優しく囁いた。
静寂が落ちる。
落ち着いた、呼吸の音。
寝たのかな、と愛しさとともに目を閉じると、隣でもぞもぞと動きがあった。
ナイトスタンドの明かりが唐突に灯る。
「加賀さん? 大丈夫ですか?」
布団の中で、加賀さんが俺の腹の上に転がってきた。
「なんか、急に倉知君の顔見たくなった」
「本当に急ですね」
俺もそういうときはあるから気持ちはわかる。
いや、違った。
俺はいつでも加賀さんを見ていたい。
「見せて」
淡い明かりに照らされた寝室で、腹にまたがった加賀さんが、俺の顔面をつかんで顔を寄せた。満足そうに微笑んで、俺の頬を揉んでいる。
「可愛い」
「加賀さん、寝ぼけてます?」
「めちゃくちゃ起きてるよ」
しっかりした声でそう言うと、無意識か意図的か、俺の上でぐいぐいと腰を揺らし始めた。
「あっ、あの、勃ちますけど……」
加賀さんが無言で手首を取って、引く。手のひらに硬いものが触れた。この形はよく知っている。一気に覚醒した。
「よし、起きた」
加賀さんの下で、元気よく膨れ上がる欲望。
「加賀さん」
加賀さん、好き、加賀さん、好きです、大好き、加賀さん、好きです、とエンドレスの予測変換みたいに、止まらなくなった。
組み敷いて、肌を合わせると、それだけで気持ちよくて、俺の口から喘ぎが漏れる。加賀さんが笑って、俺のシャツを捲り上げ、胸にキスをする。歯が胸の突起を掠め、さらに喘ぐ。
何をされても気持ちいい。それは加賀さんも同じらしかった。触れたところが汗ばんで、息が、上がっていく。
体を繋げると、目を見合わせた。
「加賀さん、好き」
「倉知君、好き」
一緒に笑って、視線を合わせたまま、濃密な快楽と幸福に、浸る。
シーツの上で戯れる俺たちを置き去りに、夜は刻々と更けていく。
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