Ⅳ.加賀編 「誓いのキス」

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Ⅳ.加賀編 「誓いのキス」

 別荘から、海が見える。  どこまでも続く青い水平線。  心地よい風が吹き、白い雲が流れ、照りつける太陽は眩しい。  プールに飛び込む水の音。はしゃぐ若者の歓声。肉の焼ける匂い。バスケットボールをつく音。  プールの中央でエアマットに寝そべっていた大月を、五月がひっくり返して遊んでいる。この夫婦は出発からずっと元気で、高いテンションを保っている。  対して、六花はほぼ動かない。ラフなTシャツにショートパンツでプールサイドのデッキチェアに寝転んでいる。大きなパラソルの影で、タブレットで絵を描いたり、風景を撮影したり、カクテルを片手にのんびりまったり過ごしている。  今はバスケをする俺たちにスマホ向けていて、これはこれで満喫しているようだ。 「倉知君、庶民シュートじゃなくてダンクしてよ」  ゴールネットを揺らして落下したボールを拾い上げ、倉知にパスをする。  真新しいバスケットゴールは、家庭用の簡易的なものではない。見るからに頑丈そうだ。屈強な黒人選手がダンクしたとしても、やすやすと壊れないだろう。 「ダンク見たい人」  全員が賛同するのをわかっていて、挙手を募る。はい、はい、とみんなが手を挙げた。 「いけ、七世! はい、ダンク、ダンク」  五月がプールの中から煽り、手拍子とダンクコールが始まった。愉快そうに手を打つ父を見て、思わず笑みが零れる。こういう、ノリノリの父を見るのはこそばゆかったが、嬉しくて、頬が緩む。  倉知がちょっと照れ笑いを浮かべてから、ドリブルを始め、飛んだ。跳躍の途中にボールを股の間に通す、レッグスルーダンクだ。おお、わあ、キャア、とそれぞれが声を上げ、ハルさんのカメラがシャッター音を連発する。拍手とともに着地した倉知がぺこぺこと頭を下げた。 「よし次、アリウープな」 「えっ、次? また?」  無造作に高く放り投げたボールを、体勢を崩しながらキャッチして、リングに叩き込む。無茶ぶりにも簡単に対応してしまうこの身体能力の高さ。身震いが起きた。 「今の見た? めっちゃカッコイイ」  ハルさんがニヤニヤして「はいはい、見た見た、撮ったから」と俺にカメラを向けてシャッターを切る。 「やべえ、惚れる。もう惚れてるけど。めちゃくちゃ惚れてるけど」 「もっとボールをください。さらに惚れさせます」  両手を扇ぐようにして、倉知がボールを要求してきた。  六花の黄色い声と、ハルさんの「ヒューヒュー」が入り乱れる。  どんなにのろけようとも、誰も咎めない。  笑ってパスを出す。  倉知が駆ける。 「おーい、肉焼けるぞ。どんどん食えー」  三発目のダンクがリングに吸い込まれた瞬間、倉知の父がトングを振りかざして声を上げた。五月と大月が、肉、肉、と大急ぎでプールの水を掻き分ける。 「はい、みんな、座ってね」  皿や箸を並べて補助的な役割をしている倉知の母は、自宅にいるときと変わらず、小さな体で甲斐甲斐しく動き回っている。  ゲストであるはずの倉知の両親が、なぜかホストのように振舞っているのが面白い。タオルを首に巻いて、右手にトングを、左手に缶ビールを持ち、汗を拭う姿が実に「休日のお父さん」らしい。  俺の父にはない要素だ。父は、庭でバーベキューなどしたことがない。したことがないくせに、道具だけは一流のものを選ぶ。やたらでかい新品のバーベキューコンロと分厚いステーキ肉の山を見た倉知の父が、「映画でよく見る外国のやつ」と手を叩いて喜んで、肉を焼く担当に立候補した。  一方、我が父はといえば、シェイカーを振っている。  ハワイの青空の下、豪奢な白亜の別荘を背景に、炎天下でシェイカーを振る男。異質なのだが不思議と絵になった。 「ブルーハワイ? これ貰っていいの?」  完成したカクテルを指差して訊くと、父が軽くグラスを押して「どうぞ」と答えた。 「倉知君、飲む?」 「いただきます。すごい、綺麗ですね」  海に向かってグラスを翳し、「海みたい」とメルヘンな発言をして微笑んでから、口をつける。 「どう?」 「爽やかです」 「定光は何がいい?」  酒の瓶が並んでいて、大体のカクテルを作れそうだ。 「じゃあ、シェイクしたマティーニで」 「変わった奴だな」  父は怪訝そうだったが、わはは、と真っ先に笑い声で反応したのが倉知の父だ。こういう細かいネタをわかってくれるので助かる。 「何が変わってるんですか?」  倉知が小首を傾げて訊いた。 「普通マティーニはステアするんだけど、あえてシェイクするんだよ。ボンドのやつな」  小首を傾げたまま、動かなくなる。別にわからなくてもいいんだよ、という意味で、肩を叩く。 「うまーい!」  いきなりどこかのおっさんが吠えた、と思ったら、五月の叫び声だった。 「肉がっ、うまぁーい!」  腹の底から振り絞った渾身の叫びが、辺り一帯にこだまする。肉が美味いというただの感想なのに、何かおかしくて笑ってしまった。みんなも笑う。  笑顔と笑い声が、満ち満ちる。  ラタンのガーデンチェアに腰を下ろし、海を眺め、カクテルグラスに口をつける。  都会の喧騒を離れ、仕事に追われる日々を忘れて、贅沢な時間を過ごす。  大切な家族と、愛しい人。  めちゃくちゃ幸せだ。 「海、見に行きません?」  となりに座った倉知が、肉の皿を寄越して訊いた。 「うん、あとでいこっか。泳ぐ?」  わけないよな、と思いながら訊くと、案の定倉知は「いえ」と即答した。 「今の時期泳げないこともないけど、海から上がると寒いとか見ましたよ。特に夕方はやめたほうがいいらしいです」 「ほほう」  倉知はいつでも情報収集に余念がない。 「それに加賀さんの水着姿は秘蔵のお宝です」  と、耳打ちをされて、無言で微笑みを向ける。スーツケースの中に、一応水着は入っているが、出番がないだろうことはわかっていた。 「見つめ合ってるところ申し訳ないす」  背後に水着の大月が現れた。失礼します、とぺこぺこしながら隣の椅子を引いて、腰を下ろした。 「加賀さん、今日は、お招きいただきありがとうございます」  俺が招いたのではないが、面倒なので「うん」とだけ返すと、もじもじというか、いじいじした様子で何か言いたそうにしている。 「何、また歌えってか?」 「は、いやいや、その節はありがとうございました、最高でした。ではなくてですね、ほら、あの、俺の職場、来てくれないなーって。待ってるんすよ、ずっと」 「あー」  大月の職場は車の販売店だ。車を買う予定がなければ行くこともない。 「だって今の車、まだまだ乗るしさ」 「Zですよね。新型もいいっすよ。試乗も歓迎ですし、あ、七世君、どう? 車、買わない?」  五月と結婚して義兄になった途端に「七世君」呼びになって、口調も変わってちょっと兄ぶっている感じなのが面白い。 「今はいらないかな。維持費もかかるし」 「でも朝の通勤ラッシュがないのはよくない?」 「俺、電車が好きだから」 「そっかあ」  会話が終了した。間に挟まれた俺は、笑いを堪えるしかない。  倉知に悪気はなく、本当に電車が好きなのだが、大月は拒まれたと思ったのか、がっくりうなだれている。 「今度冷やかしにいくわ、二人で」  大月の肩を叩く。 「は、はいっ、神よ!」 「ねえ、みんなでビーチ行こうよ」  五月が肉を持ったまま、合流してきた。肩にバスタオルをかけたビキニの水着姿だが、あまりに堂々としていていやらしさが一切ない。 「みんなって?」  五月が、元気に両手を広げて「みーんな」と満面の笑みで言った。 「新婚なんだから、二人がいいんじゃない?」  倉知が言った。二人で行きたいのは自分だろう。 「でもあたしたち、英語わかんないし。喋れる人ついてないと、いざというとき困るもん」  父とハルさんは英語が堪能だ。俺と倉知もほとんど支障はない。他のみんなは、英語ができない。だから自由行動の日は、倉知の両親に父が、五月と六花と大月にハルさんがついていくことになっている。  倉知の両親は、映画や海外ドラマの撮影場所と射撃場に行く予定で、五月たちはおもにショッピングだ。  どっちについてくる? と訊かれて、どっちにもついていかないと答えた。  俺と倉知はロコモコを食べにいく。  肉を食い散らかしたあと、親たちを除くメンバーで、海に行った。若者とは体力の差がある。どちらかと言えば俺も別荘でゆっくりしていたい派だったが、倉知が行くというのに、行かない選択肢はない。  ビーチは人がまばらで、海に入っているのは二人ほど。白い砂浜と透き通るエメラルドグリーンの海は、美しかった。  遠くのほうで、タキシードとウエディングドレスのカップルが撮影をしているのが見えた。風が強く、長いベールがたなびいている。絶好のロケーションだ。きっと最高の写真が撮れるだろう。  五月と大月が奇声を上げて海に飛び込んでいくのを眺めていると、倉知が手を握ってきた。 「明日ですね」 「手のひらめっちゃしっとりしてる」 「すいません、緊張して」 「大丈夫だよ。家族しかいないんだし、失敗しようが何しようが、オールオッケー」 「加賀さん好きです」 「おう」  脈絡のなさが愛くるしい。  恋人つなぎで握り合わせた親指で、倉知の手の甲を撫でさすると、挙動が怪しくなってきた。誰もいないか、周囲をキョロキョロと確認している。 「誰も見てない」 「いや、後ろにめちゃくちゃ見てる人が」  俺の言葉を無視して、ちゅ、と頬に吸いついてきた。  背後から、んふっと六花の含み笑いが聞こえた。もはや姉に見られることをなんとも思わなくなっているらしい。 「千葉さんも来れたらよかったね」  倉知が六花を振り返って言った。 「なんで? 家族旅行なのに?」  うん、そうなんだけど、と倉知が頭を掻く。 「私には二人の歴史の目撃者になるという大切な任務があるから。かまってあげられないし、来られてもって感じ」  淡々とした口調ではあるし、ドライだなとは思うが、「かまってあげられない」という言い方は、ニヤッとするものがあった。 「こういうのに参加するのは、家族になってからでしょ」  六花が俺たちにスマホを向けて、カシャ、と音を鳴らす。倉知と視線を合わせてから、六花を見てニヤニヤした。 「何、その顔」  六花がスマホを下げて、俺たちを見た。 「いずれ家族になるみたいに言うから」  倉知が言うと、六花が返す言葉に詰まり、ほんのりと赤くなった。 「六花が照れた」 「めっちゃ可愛い」 「可愛いのはあなたたちだから。今表情シンクロしてるからね?」  撮ってやる、と鼻を鳴らす六花を、倉知がスマホで撮影した。 「照れる六花、千葉さんへのお土産にしよう」 「ぐ、この……、その写真、消しなさい!」  笑って砂浜を駆けていく倉知を、六花が追いかける。砂浜に腰を下ろし、戯れる姉と弟をほのぼのと眺めた。  平和だ。  青かった空に次第に赤みが差す。燃えるような夕焼けが広がるのを見届けてから別荘に戻ると、親たちが夕飯の準備をしていた。食事の世話ばかりさせているようで、なんだか申し訳ない。 「おかえり、お前たち。ちょっとこれ見てよ」  倉知の父が、俺たちを手招いた。全面ガラス張りで、天井の高い、いかにも金持ちらしい別荘の一室に、似つかわしくないものがある。  正方形のテーブルを取り囲む、背の高い四つの椅子が、眺めのいい窓際の特等席に置かれている。 「何この雀卓みたいなの」  雀卓にしてはおしゃれすぎると思ったが、どう見ても麻雀用のマットが敷いてある。四辺に点棒を入れる凹みがあるし、間違いない。倉知の父が「そう」とうなずいた。 「雀卓だよ」 「ですよね」 「まさか、やる気? ハワイで?」  倉知が俺のとなりでゴクリと唾を飲み込んだ。 「大みそかの恒例行事といえば、麻雀しかないだろ」  倉知の父が言うと、えー、わー、と五月と大月が騒ぎ出す。  倉知家は毎年年越しの瞬間に麻雀をしているという話を聞いた父が、やらねばならぬと奮起したのだろう。日本ならまだしも外国で、ここまで麻雀にもってこいのジャストサイズを用意するのは、大変だっただろう。そこまでやるか、と呆れたが、父なら、やる。 「あのー、優勝賞品が、加賀さんを好きにしていい権利って本当ですか?」  大月が前のめりになって訊くと、五月が「本当です」と答え、倉知が「嘘です」と俺の前に立ちはだかる。 「いいよ。どうせ勝つから」 「出た、加賀さんの負けん気」  倉知の父が口笛を吹き、倉知がうっとりとため息をつく。 「大好きですけど、加賀さんのそういうところ」 「だろ」 「いちゃいちゃ」  六花が適切に効果音を入れてくる。 「みんなー、ご飯よー」  倉知の母の、パワフルな呼び声が轟いた。倉知の父と、三人の姉弟が「はーい」と声を揃えて返事をした。条件反射が可愛くて、笑いながら食卓につく。  父とハルさんと倉知の母の三人が、協力して作り上げた夕飯は、めちゃくちゃ豪華だった。誰が何を作ったのか、一目瞭然だ。父が作る料理は、名前のない創作料理が多い。何の食材を使っているのかもわからない料理が、父のだろう。  色とりどりでバランスのいいサラダは、ハルさんだ。料理は苦手な人だが、盛り付けのセンスが光っている。これも才能の一種だ。  そして、倉知の母の、手巻き寿司だ。  倉知家でごちそうになるたびに、チラシ寿司か手巻き寿司のどちらかが、必ず出てくる。ハワイでも寿司なのがぶれなくて面白い。 「それではみなさん、手を合わせて」  倉知の父が、音頭を取る。総勢九名が、席に着き、手を合わせた。 「いただきます」  全員の声が重なって、よーいどんで、複数の手が伸びる。  料理はどれもこれも美味しくて、あっという間に皿の上から消えていく。談笑するみんなを見ながら、箸を置き、ワイングラスを持ち上げて、隣の席の倉知を見る。めちゃくちゃ頻繁に横顔を見られていることは、わかっていた。 「ちょっと、なんか、夢みたいです」 「うん、わかる」  だだっ広い室内に、厳選された家具、品のいい調度品、鏡のように磨かれた床。ライトアップされ、浮かび上がる巨大なプールにヤシの木の陰影。部屋の中も、窓の外も、完璧なのだ。完璧すぎて、落ち着かない。 「ずっと緊張してます」  倉知が胸を押さえて、ふう、と肩で息をする。 「ワインでも飲んで落ち着けば?」  グラスを傾けて訊いたが、倉知はキリッとした表情で首を横に振る。 「いえ、明日は大切な日なので」 「ちょっとはリラックスしたらいいのに」  言いながら、倉知の背中を上から下に、人差し指で撫でてやる。あー、と変な声を出して背筋をぴんと伸ばす倉知が面白い。 「あ!」  倉知の母が、突如声を上げた。料理を取り分けたり、酒を運んだり、忙しく働いていたが、ぴたりと動きを止めた。 「七面鳥、できたかな。チンって聞こえたよね」  チンとは聞こえなかったが、倉知の母が小走りでキッチンに飛んでいき、すぐに手ぶらで戻ってきた。 「まだだった。空耳だった」  ドッ、と笑いが沸いた。 「ここのオーブン、チンって言わないかも」  ハルさんが肩を震わせて追い討ちをかけ、さらに爆笑の嵐が起こる。  終始、笑いの絶えないディナーだった。デザートまでしっかり腹に収めると、全員で片づけをし、それからは各々が好きなように過ごし始めた。  五月と大月は、またプールだ。温水だからいつでも入れるとはいえ、よく飽きない。二人でユニコーン型の浮き輪に乗って、はしゃいでいる。  六花はハルさんのカメラ指導を受けていて、真剣な表情だ。  倉知の父と母は、ソファで力尽きている。  ロッキングチェアに腰かけた父が、葉巻を咥え、オンザロックのウイスキーを片手にみんなを眺めている。その風格は、まるっきりマフィアのボスだ。 「ボス、まだ早いけどもう寝るわ」 「そうか、おやすみ」  父が葉巻を咥えたまま、グラスを掲げて言った。 「あの、光太郎さん」  倉知がビシッと気をつけをし、腰を九十度に曲げて、頭を下げた。 「こんな素敵な別荘に招待していただいて、本当に、ありがとうございます」 「こちらこそ。楽しい時間を過ごせて、感謝してる。定光」  胸に手を当て、倉知に軽く会釈をしたあと、父が俺を呼ぶ。葉巻を灰皿に置いて、両手を広げて懐を空けた。軽くハグをする。父の手が、俺の背中を撫でた。 「親父、ありがとう」  体を離すと、父がフッと笑う。 「どういたしまして。もう一人の息子も、さあ」  父が再び両手を広げた。大きな体を折り曲げて、おずおずと父を抱きしめる倉知の背中を見て、笑う。 「ごめん、親父、酔ってたと思う」  階段を上がりながら声を潜めて言うと、倉知が鼻をすすった。 「泣いてる?」 「あの、本当に、俺は幸せです」 「うん、俺も。好き」 「好きです」  負けじと好きを返してくる。好き好き合戦をしながら部屋に入り、一緒にシャワーをして、早々に消灯した。  それぞれのベッドに入る。ゲストルームはツインだ。別々に寝るなんて、どれだけぶりだろう。  少し開けた窓の隙間から、五月と大月の笑い声がかすかに聞こえてくる。二人は新婚で、この旅行はハネムーンのようなものなのだ。楽しくてしょうがないのは理解できる。 「加賀さん、寂しい」 「我慢しような」 「なんで?」 「なんでってなんで?」 「そっちいってもいいですか?」 「だーめ」 「なんで?」 「何、すげえグイグイくるじゃん」 「せっかく二人きりなのに。加賀さんに触りたい。お願い」  懇願されれば甘やかしたくなるというものだ。  ベッドを下りて、倉知の布団に潜り込む。 「来た」 「うん。でも、なんもすんなよ?」 「わかってます。今はただ、触れたいだけです」  理性が働くこともあるらしい。体は密着しているものの、下半身は大人しく、何もないまま朝を迎えた。  さっさと朝食を終え、家族を置いて、一足先に二人で式場へ向かう。  やっとこの日が来た。死ぬほど楽しみにしていた倉知のタキシード姿を見られる。  俺のタキシードは光沢のあるシルバーのものだ。倉知は白だと言っていた。なんということだ。あまりにも、ふさわしすぎる。ピュアで真っ白な倉知が、純白のタキシードを身にまとうのだ。  簡単な式の流れを打ち合わせし、そのあとで、それぞれ部屋を分かれて衣装の着付けを始めた。担当のスタッフは日本人の女性で、最初から最後まで、延々と「素敵です」を繰り返していた。  二人の準備が整うと、いよいよご対面のとき。  控室のドアを、ノックする音。 「どうぞ」  返事をすると、ドアがゆっくりと、開いていく。  天使が現れた。   真っ白な上下に、ネクタイとベスト、胸元のチーフが、薄いピンクだ。このコーディネイトはもしかして俺が選んだのではないかというほど、理想的だ。  髪型も、いつもと違う。ワックスなんて使ったこともない倉知が、ヘアアレンジを施しているという事実だけでもう腰が砕けそうだった。  感情が渋滞を起こし、何も言えなくなって、ただ立ち尽くす。 「加賀さん、すごい、カッコイイ」  顔をくしゃくしゃにした涙目の倉知が、「脚長い、細い、あの、キラッキラ……、美しいです」とまくしたてるのに、俺は語彙を消失してしまった。うずくまって、「好き」とつぶやくのが精いっぱいだった。 「お時間ですが、よろしいですか?」  ドアの向こうから声がかかり、正気に戻る。咳払いをしてから、「はい」と返す。 「行くか」 「行きましょう」  倉知が大人の顔で笑って、俺に手を差し出した。  高校生だったのに。本当に、成長した。安心感でいっぱいだ。きっと、何があっても頼もしく、引っ張っていってくれる。  大きな手を取り、立ち上がる。  控室を出て、離れた場所に立つチャペルに案内された。  二人並んで、扉の前に立つ。  扉が開く。  まばゆいほどの、白。  壁も天井も床も椅子も、すべてが白い。  そして、眼前の大きな窓からは青い海と空が見える。  高い天井の、小さな三角の明かり窓から、太陽が差し込んでチカチカと光が舞っている。  現実味がない。  俺たちを振り返って見ているみんなの顔は、笑っていたり、泣いていたり、さまざまだった。  控えめなBGMが流れる中、一歩前に出る。腕を組んでいる倉知が、ギクシャクと遅れてついてくる。足が逆だ。  めちゃくちゃ緊張している。  事前のリハーサルとは違うほうの足を出したのがおかしくて、二人で同時に笑ってしまった。小さく「ダメだ」と嘆く倉知の腕を叩いて、小声で励ました。 「気にすんな」  別に、厳かにやらなくたっていい。  ちゃんとしなくたっていい。  楽しければそれでいい。  バージンロードを歩ききり、牧師の前に到達した頃には、倉知の息が軽く上がっていた。  讃美歌が終わり、牧師が聖書の朗読を始めると倉知は生気を取り戻し、かなり落ち着いたが、今度は俺のほうに問題が発生した。  牧師が、おそろしく片言の日本語なのだ。  こういうのに至極弱い。あっさりとツボに入ったが、いくらなんでも吹き出すわけにはいかない。耐えて、耐えて、耐えた。  背後の何人かが同じように耐えている空気を感じて、やばいなと危機感を覚えたが、倉知は真顔だった。真剣な横顔が涙ぐんでいるのを見て、ぐ、と胸がつまる。 「それデハ、誓いの言葉デス」  病めるときも健やかなるときも、と定番の誓いの言葉が始まると、向き合って、手を取り合う。倉知の頬に涙が伝っている。泣きながら、でも笑顔で、「はい、誓います」と宣言をする。  次は俺の番だ。牧師が俺に向き直り、誓いの言葉をたどたどしく読み上げる。  死がふたりを分かつまで、愛することを誓いますか?  愚問だ。 「はい、誓います」  力強く答えると、倉知が急いで涙をぬぐう。  パア、と顔を輝かせると、俺の肩を颯爽と抱き、おそろしい速さでキスをしてきた。  唇を離した倉知が俺を抱きしめる横で、牧師がニコニコしながら、困ったように「Oh……」と肩をすくめた。 「キスは、まだデス。指輪のあとヨ」 「えっ、あっ、まだ、デスヨネ」 「マテナカタ?」 「マテナカタ、はい、待てなかった、デス、すいません」  可愛すぎて駄目だ。片言の牧師につられる倉知も、フライングのキスも、全部が可愛くて、俺はもう駄目になってしまった。骨抜きだ。  顔を覆い、天を仰ぎ「愛してる!」と声に出して絶叫する。  まだ式の途中だが、みんなが次々と腰を上げ、スタンディングオベーション状態だ。家族だけのアットホームな式だから、なんでもありだ。  六花が両手を握り締めて何か叫んでいる。五月と大月が腕を組んで手を叩き、倉知の父が指笛を鳴らし、母はハンカチで涙をぬぐい、ハルさんがシャッターを連射する。  父と目が合った。厳粛であるべき挙式で、こんなふうだと叱責されるのでは、とハッとなったが、父の顔は優しかった。  優しく微笑んで、ゆっくりと手を打ち、涙を浮かべている。  父はずっと厳しかった。泣いているところを見たことがなかった。この人は、泣かないのだと思っていた。  胸に込み上げる感情を堪え、父から目を逸らす。  可愛いとか、尊いとか、すごいとか、がんばってとか、いろんな声が飛ぶ中、式場スタッフが仕切り直し、指輪の交換が始まった。いよいよ佳境だ。  指輪は新調せず、いつものペアリングを用意した。細かい傷がついているし、クリーニングでくすみは取れても、使用感は否めない。  でも、長く時間を共にした、大切な二人の指輪だ。  これがいい。  俺たちには、これ以外の指輪は必要ない。  倉知が俺の左手を取る。少し震える指がいとおしい。薬指に、押し込まれていく指輪。違和感なく、指になじむ感覚に、心が和み、笑みが漏れた。  倉知の指輪をつまみ上げる。大きな左手は、汗で湿っていた。倉知の顔を、見上げた。うずうずしている。笑って、指輪をはめてやった。 「それデハ、誓いの」  倉知が限界を迎えた。牧師が言い終わる前に、俺の顔に両手を添え、身を屈めてキスをする。  笑いながら、それに応えた。  何度も押し当ててくる唇は、笑みの形。  気が済むまでやらせてやろう。  みんなの歓声がこだまし、頭上から、ピンクの花びらが降ってきた。周囲を取り囲む家族が、一斉に、フラワーシャワーを浴びせてくる。  舞い踊る花びらの中、何度も唇を重ね、笑い合う。  たっぷりと誓いのキスを交わしたあとで、全力で、抱きしめた。  大切な、愛しい宝物。  一生、離さない。 〈了〉
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