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Ⅱ.加賀編 「待ち合わせ」
同棲していながら距離を置くというのは非常に難しい。
俺だって、顔を見れば構いたくなる。無意味に膝カックンをしたり、すれ違いざまに脇腹をつついたり、今まで意識せずにやってきたことを、苦労して自制しなければならないのだ。
触れそうになる手を、何度引っ込めたことか。
抱きつきそうになり、何度唇を噛んだか。
朝、玄関でキスを交わす。
それは長年続けてきたルーティンのようなもので、挨拶以外の意味合いなどまったくない。なくてもいい。というか、ないのが正解だ。
でも俺は、たかがいってらっしゃいのキスで、好きが溢れ、倉知が欲しくて、何度も泣きそうになった。唇が触れ合う瞬間でさえ、倉知の脳内を占拠しているのは、学校だった。それが悲しいのではなく、俺だけが、浅ましく相手を求めているというのが情けなかった。
首にしがみついて、舌を深く差し込んだら、どんな顔をするだろうか。
仕事を忘れて、俺を欲しがってくれる?
妄想はしてみたが、そんなことを望んではいなかった。
とにかく、邪魔をしたくない。構って欲しいし甘えたかったが、邪魔だけはしたくないというジレンマ。
自宅では生殺しで、職場に行けば倉知の近況を知りたがる連中がいて、六花とランチをすれば、話題は弟のことに決まっていた。
どんなに考えないようにしても、俺の中から倉知の存在が消える瞬間などないのだと思い知った。
そんなこんなでスタートからの二週間はわりと地獄だったが、悪いことばかりでもなかった。
仕事に集中する姿は立派で惚れ直したし、顔つきが段々教師らしく、大人っぽくなっていく様を見ていられる俺は、幸運だったと思う。
それにしても、二十二歳にしてはどうしたってまだまだ幼すぎる。
スーツが馴染んできたとはいえ、カッコイイより可愛いが勝つ。
俺を見つけて嬉しそうにテーブルに駆け寄ってきた倉知は、まるで子犬のようだった。
いや、比喩は不要だ。まるっきり、子犬だった。
「すいません、遅くなって」
焼肉屋の換気扇を「おっと」と避けながら、俺の前に腰を下ろした。
「可愛い」
「え?」
「間違えた。お疲れ」
「はい、加賀さんも、お疲れ様です」
パア、と笑顔を咲かせる倉知が眩しい。仕事帰りだというのに、疲れが一切見えない。さすがの若さだ。
「今日はご苦労さん会ってことで、俺の奢り。なんでも食えよ。ビールは?」
あれから倉知は要領よく仕事に取組み、精神的にもかなり余裕が出た。帰宅時間も安定したところで、週末、仕事帰りに待ち合わせて食事をしようと誘った。倉知はノリノリで、「デートですね」とはしゃいでいた。
「加賀さん、車ですよね」
メニューを開いて、遠慮がちに俺を見る。
「俺はいいよ。飲みたいか、飲みたくないか」
「飲み……、たいです、けど」
「飲め。そして酔え」
ニヤリとしてみせると、俺の思惑を察知した倉知が頬を赤らめた。
可愛い。
注文を済ませると、腕を組み、目の前の倉知を見つめた。
可愛いなあ。
という感想しか出てこない。倉知は俺の視線を少し居心地が悪そうに受け止めて、店内に視線をさまよわせた。背の高いパーティションで区切られた、半個室状態の席だ。満席で、すごく騒々しい。多少声を張らないと、会話が成り立たないかもしれないが、人の目はそれほど気にしなくてもよさそうだ。
というわけで、俺は倉知を大いにいじり倒し、観察することにした。
「可愛いって言われない?」
「へっ」
「生徒とか、他の先生とか」
ネクタイを緩めて訊くと、倉知が頭を掻く。
「言われます、なぜか」
「なぜかって、可愛いんだよ、お前は」
倉知が黙る。唇を引き結んで、明らかに照れた表情だった。
「ちょっと待て、いちいち人前でそういう反応するの?」
「どういうことですか?」
「生徒に可愛いって言われれるたびに、その可愛い表情披露して、可愛くモジモジ照れてんの?」
「えっと……」
「すげえ心配になってきた」
倉知が俺に手のひらを向けて、聞き取りづらい小声でもごもごと言った。
「いえ、あの、俺、加賀さん以外の人に可愛いって言われても嬉しくないし、生徒に対してはちゃんと、キリッとして……、毅然とした態度で接してます。だから心配しないでください」
今の科白のところどころにツッコミポイントがあるし、胸を張って報告する倉知は、誰がどう見ても可愛い。これはまずい。「キリッと」しているつもりの倉知を、陰で可愛い可愛いと愛でている女子高生は少なくないはずだ。女子にとどまらず、男子高生だって、放っておくものか。
「俺も高校生になって倉知先生の授業受けたい」
本音が出た。倉知が手を打って、「それいい」と目を輝かせた。
「加賀さんが生徒だったら……、あ、駄目だ、やっぱり緊張します」
想像で緊張したのか、胸を押さえて自嘲気味に笑う倉知をどうにかしたい。身を乗り出したとき、「あっ」と声がした。通路で足を止めた少女が驚いた顔で口元を押さえている。
「倉知先生だ……、こ、こんばんは」
倉知のことを先生と呼ぶのだから生徒だろう。背の低い、細身の女子が興奮した様子で倉知に何度も頭を下げた。
「こんばんは。吉岡さんもここで夜ご飯?」
名前を呼ばれた女子は、両肩を持ち上げて、体を強張らせながら「はいっ」と素っ頓狂な返事をした。
「今、食べ終わって、家族と、来てて……、あ、私の名前、覚えてくれてたんですね」
感動で目を潤ませている。彼女には、倉知しか見えていない。もうこれは、だいぶ好きだなと苦笑していると、母親らしき女性が財布にレシートを押し込みながら、慌てて飛んできた。
「何、どなた?」
娘に耳打ちしたのが聞こえた。
「倉知先生、数学の」
「ああ、カッコイイって言ってたお気に入りの先生?」
「ちょっとママ」
女子生徒の顔が、みるみる赤く染まる。
「お世話になっております。この子、数学嫌いだったくせに、今はもう授業が楽しみだって、待ち遠しいって言ってるんですよお。先生のおかげです」
ありがとうございます、と頭を下げる母親に、倉知が立ち上がって綺麗にお辞儀をする。
「いえ、お役に立てたのなら嬉しいです。吉岡さん、すごく真面目に授業聞いてくれてるので、こちらこそありがたいです」
まあうふふ、と黄色い長財布で口元を隠す母親が、ふと俺を見る。微笑んで会釈すると、二度見された。
「おっ、お食事中にすみません。お連れの方も、失礼しました。先生、今後ともよろしくお願いします」
倉知と俺にそれぞれ頭を下げ、行くよ、と娘の手を引いていく。
「食事中じゃなかったよ、まだ肉焼いてなかったもん」
「そういうことじゃないの。もおっ、もっといい服着とくんだった」
母娘と入れ違いに、店員が両手にトレイを持って現れた。テーブルに肉を並べると、最後に、当然のようにビールジョッキを俺の前に、ウーロン茶を倉知の前に置き、「ごゆっくりどうぞー」と去っていく。無言でグラスを入れ替えて、顔を見合わせた。
「なんかすいません」
「ん、焼こう」
「はい」
黙々と網に肉を載せながら、そっちか、と納得した。
高校生から見たら、倉知は可愛いではなくカッコイイになるのか。特にああいう大人しそうな女子にはそう映るのかもしれない。
まあ、そうか。童貞の高校生みたいな顔ではあるが、彼女たちにとっては年上の男なのだ。
「倉知君、ちゃんと先生してるんだな」
「えっ、はい、してます、ちゃんと」
「うん、ほんとにキリッとしてた」
照れくさそうに、でも誇らしそうに、倉知が笑う。
この短期間のうちに、生徒の顔と名前を一致させるのは難しいだろう。担任でもないし、まだ一か月も経っていないのに、すぐに名前が出たのはとても偉い。どこまで完璧なのか。さすがとしか言いようがない。
「お疲れ様、先生」
グラスを持ち上げて労うと、倉知がビールジョッキを掲げた。
「ありがとうございます」
軽く打ち合わせ、同時に口をつける。
「なあ、そういや、いつ言おうか迷ってたんだけど」
「なんですか?」
「今年、運動会どうする? 会社の。来る?」
肉を裏返して訊いた。職場の運動会に倉知が参加するのが当たり前になっていたが、今年はおそらく無理だろうと思っていた。言い出すタイミングがないまま当日を迎えるかもしれないが、それでもいいかと高をくくっていた。
「何日ですか? 毎年五月の末の土曜ですよね」
倉知が通勤鞄から手帳を取り出した。
「うん、でも仕事あったらいいよ」
「いえ、行きます。行きたいです」
ボールペンを走らせて、早速書き込んでいる。
「来月は行事が目白押しですね」
手帳を眺めて倉知が言った。倉知の皿に焼けた肉を置いて、「あー」と同意する。
「結婚式」
二人で声をハモらせた。
「なんかすげえよな。ほんとに結婚すんだな」
「すごい変な感じですけど、五月にはあの人しかいませんよ」
五月と大月が、結婚する。するだろうとは思っていたが、いざ現実になるとなんだか冗談のようだった。
「それで、その、親戚が出席するんですけど、加賀さんを紹介したくて」
「ああ……、そっか、うん、でも、平気?」
男同士で付き合っていることを、めでたい席で報告するのは気が引ける。
「もう話してあるんで、大丈夫です」
「うわー、そっか。粗相しないように頑張るわ」
「粗相って」
倉知が笑って肉を口に放り込み、「う、美味い……」ととろけそうな顔になる。これは倉知へのご褒美ではあるが、俺自身にとっても至福の時間だ。
「加賀さん、お肉美味しいです」
「おう、お肉美味しいな」
テーブルの下で、革靴の爪先をくっつけて笑い合う。
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