Ⅱ.加賀編 「八月十八日」

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Ⅱ.加賀編 「八月十八日」

 総務から内線が入り、「明日、有給届出てないけど、大丈夫?」と訊かれた。 「え? ああ、八月十八日ですか?」  卓上カレンダーを見て、笑いが零れた。  ここ数年、八月十八日は必ず有給休暇を取ってきた。それを総務も把握していて、書類が出ていないことを親切に教えてくれたらしい。 「いいんです、今年は」  今年はその必要がない。  学生は夏休みでも教師は当然仕事がある。研修や講習が多くてむしろ忙しいと言っていた。俺だけが休んでも仕方がないのだ。  倉知の誕生日に、俺のすべてを捧げてきた。時間も、体も、何もかも。  好きなようにさせて、甘やかして、甘やかされる。  大切な、幸せな一日だった。  だった、と過去形で完結させたくない。今年はどうなるのか。どうしようか。何かしたい。絶対したい。社会人一年目で頑張っている倉知を労いたい。  せめて気の利いたプレゼントを渡したい。  そう思うのに、毎年有給をプレゼントしてきたせいで、倉知が喜ぶものは、必要とするものは、俺しかないだろうという傲慢な結論にしか至らず、結局無難にネクタイを買ってみたが、我ながら、めちゃくちゃつまらない。 「明日、俺の誕生日ですね」  シャワーを止めて、顔を拭い、倉知が言った。自分から誕生日アピールとは、世にも珍しい。 「うん、あれ、もしかしてなんか欲しいものあるとか?」 「ないです。ただ、明日、校内研修なんですけど、終わるの七時で、早く帰れないかもって」  倉知が風呂場の椅子から立ち上がった。濡れた全裸の股間に目がいく。ぶら下がった先から、水滴が滴っていた。俺はひそかにこれを見るのが好きだった。 「なんか食べたいものは?」  股間を凝視しながら訊いた。倉知は濡れた髪を撫でつけてから、バスタブに脚を入れ、身を沈めると、向かい合った俺の脚を揉みながら言った。 「なんでもいいです。俺の望みはただ一つ。セックスしたい」 「ロマンティック」 「誕生日なので、加賀さんを、俺の好きにします」 「お、おう」  俺のふくらはぎを揉む動きが止まった。顔つきが、変化する。男の顔だ。 「加賀さん、勃ってきた」  視線を動かし、股間を見る。お湯の中で漂う倉知のペニスが、でかくなっている。 「前夜祭? それとも溜める?」 「前夜祭です」  倉知の手が内股を滑り、下腹部に潜り込んでくる。お湯を波立たせ、覆いかぶさってきた。  唇が、触れ合う。目を閉じて、舌を迎え入れた。  舌先が絡み合い、唾液の音が浴室に響く。  興奮した倉知の息遣いが愛しくて、それだけで胸が熱くなる。  首にしがみつき、キスに没頭する。  俺の股間をまさぐっていた手が、尻に潜り込み、入ってくる。ゆっくりと前後し、優しく押し広げられる感覚。指の腹が奥に触れると、体がびく、と反応した。気持ちいいところをわかっていて、意図的に何度もノックしてくる。「あっ」と震える声が勝手に喉を突いて出た。 「あ、んっ、あっ、しつこい、あっ、やめ……」 「加賀さん、可愛い、ここ、気持ちいいですか?」  耳に口をつけて、息を吹きかけながら問われ、情けない喘ぎしか出てこない。  倉知が増長する。  耳を甘噛みし、中に舌を差し込んでくる。ぴちゃ、という水音と、倉知の高揚した呼吸の音が混ざり合い、ざわざわとした快感が、腰から首の裏にかけて這い上がってくる。 「イク……っ、あっ、出る……!」  目の前が白くなり、恍惚が全身に広がった。はあ、と息をつき、脱力して、「馬鹿」と倉知の耳を引っ張る。 「出ちゃったじゃん。どうすんのお湯」 「すいません、可愛くて」  倉知が俺の頭を抱きしめて、たっぷりと頬ずりをしてから、言った。 「ちゃんとつかまってて。持ち上げます」 「ん」  両手両脚を絡ませて密着すると、倉知が俺を抱えて腰を上げた。バスタブから離脱すると、浴室のタイルの上で、持ち上げられた格好のまま、どうやら倉知が入ってこようとしている。 「あ、うわ、ここで? 駅弁?」 「入りました」 「うあ、ちょ、やばい、イッたばっか……、あっ」  体を上下に揺さぶってくる。これは、まずい。この体位は、非常に危険だ。めちゃくちゃ、いい、気持ちいい、知っている、わかっている。下から突き上げられ、体がバウンドし、深く、届く。  ほとんど絶叫しながらしがみついて、倉知が達する前に、また、先に、イッてしまった。弾む体の動きに合わせて、精液が小刻みに出てくる。止められない。  気がつくと、朝だった。 「え? は? 何時……?」  いつもと同じ場所で、スマホが充電器に刺さっている。引き抜いて、時間を確かめた。  七時過ぎている。  何時に寝たのかもわからないが、異様にスッキリしている。めちゃくちゃよく寝た。  それにしてもまったく記憶がない。風呂場でイカされて、それからどうやってベッドに辿り着いたのか、覚えていない。 「おはようございます」  ベッドから腰を浮かすと、ちょうど寝室のドアが開き、倉知がにこ、と天使の笑みを浮かべた。 「よく眠れました?」 「うん。いや、駄目だろ。朝ご飯作って洗濯も済ませて、今日はゆっくり寝かせてやろうって企んでたのに。何をよく眠ってんだよ俺は」  倉知がおかしそうに「いいですよ」と頭を掻いた。 「気絶させちゃったの俺なんで」 「気絶」 「顔洗ってきてください。ご飯食べましょう」  やはり、あれはとても危険な体位だ。気持ちがよすぎる。 「もう、駅弁禁止な」  ダイニングの椅子を引きながら言うと、倉知がみそ汁のお椀を二つテーブルに置いてきょとんとした。 「なんで……、あ、あの体位の名前でしたっけ。なんで駅弁って言うんだろう」 「駅弁、体位、由来で検索したら出てきそうだな」 「あとで調べます」 「さすが、勉強熱心」  手を合わせて、いただきますと口を揃えた。 「あ、言ってなかった。おめでとう。誕生日おめでとう。めっちゃおめでとう」 「へへ、ありがとうございます」  可愛い。へへ、が可愛い。  もう、なんだろうか、わけがわからないくらい可愛い。  こいつのこのまばゆいばかりの可愛さは、なんなのだ。  ただ食べているだけなのに、可愛すぎて、好きだ、と脈絡もなく叫びたくなった。 「好きだ」 「へっ、あ、俺もです。好きです、加賀さん」  よくもこんな、意味不明なタイミングで好きだとか言ってくるおっさんに、笑顔で付き合ってくれるものだ。  本当に、いい子だ。  向かい合って、朝食を食べられる喜びに、浸る。  誕生日を一日中一緒に過ごすのも、勿論幸せなことだ。  でも、ずっと一緒じゃないからこそ、限られた二人の時間がすごく濃密で、好きと可愛いに拍車がかかる。  付き合って七年目の新たな発見だ。 「俺今日定時予定だから、買い物して帰るわ。なんか食べたいもの決めてよ。なんかあるだろ?」  エレベーターを待ちながら、倉知が快活に答えた。 「じゃあしゃぶしゃぶで」 「了解」 「しゃぶしゃぶより加賀さんのほうが絶対美味しそう」  顔を近づけて、倉知が囁いた。おっさんみたいなことを言う、と笑って見上げると、少し顔が赤い。 「自分で照れるなよ、くっそ可愛いな」  エレベーターに乗り込み、ドアが閉まると倉知が勢いよく自分の顔を叩き始めた。 「はあ、嬉しくて、顔が笑う。わー」 「こらこら、俺の大事な可愛い顔を叩くんじゃない」 「えっ、はい、……すいません」  赤くなった顔を、撫でてやる。視線が合って、たまらなくキスしたくなってきた。 「駄目ですよ」 「うん、わかってる」  エレベーターが停まる。しばし、別れの時間だ。  八月十八日に、一緒にいない。  ただそれだけのことなのに、驚くほど寂しかった。  軟弱だ。  今の俺の心情を、周囲の人間が知れば、おそらく嘲笑う。  でも仕方がない。今日は八月十八日なのだ。  時間よ進めと念じれば念じるほど、時計の針が遅くなる気がした。  だから、頭を切り替え、仕事に集中した。仕事というやつは、時間泥棒だ。あっという間に定時を過ぎた。ダッシュで職場を離れ、買い物をして、帰宅する。  着替えはせずに、ジャケットだけを脱いでソファに放り投げ、ワイシャツを腕まくりすると、そのまましゃぶしゃぶの準備に取り掛かった。  しゃぶしゃぶというやつは、手軽でいい。いい肉を使えば贅沢もできるし、野菜も摂れるし、ありがたい。重複するが、何よりも手軽でいい。  倉知はつけだれを手作りするが、俺の場合は市販のものだ。鍋に昆布を入れて放置すれば完成だ。洗い物も少なくて、助かる。  ダイニングテーブルに皿と箸をセッティングし、準備万端だ。  しつこいようだが、しゃぶしゃぶは手軽で素晴らしい。倉知はきっと、だから今日、しゃぶしゃぶを指定した。  時間には限りがあり、何に重きを置くか、配分が重要なのだ。 「ただいま」  玄関が開く音と同時に、倉知の声が聞こえた。廊下を飛んでくる気配。 「おつかれ、おかえり」  振り返ると、り、と同時に抱きしめられた。倉知の体は熱かった。全身が汗でしっとりしていて、息は上がり、心臓の鼓動が速い。おそらく駅から走ってきたのだろう。背中に腕を回し、労うように撫でさする。 「スーツだ」 「おう、裸エプロンとどっちにしようか迷ったけど、仕事上がりの汗臭いの、好きだろ」 「加賀さんは汗臭くないですけど、え? 裸エプロン?」 「裸エプロンがよかった?」 「究極の選択ですね」  呼吸が落ち着かないまま、倉知が待ちきれない様子でキスをしてきた。はあはあ言いながら角度を変えて、何度も唇を吸ってくる。 「しゃぶしゃぶは?」 「先にメインディッシュをいただきます。しゃぶしゃぶはデザートです」  なんだか、倉知のこういうおやじ臭い発言は、おっさんの俺に染まったのではないかとたまに心配になる。  わずらわしそうにスーツのジャケットを脱ぎ捨てた倉知が、ネクタイを緩めながら小刻みにキスを続ける。密着した下腹部は当然のように、すでに硬い。  めちゃくちゃ興奮してるな、と思うと、俺もめちゃくちゃに興奮してきた。  お互いがお互いに絡みつき、くんずほぐれつの状態で、寝室のベッドに直行した。  服を脱ぐのももどかしい。下だけ取っ払って、とっとと体を合わせ、激しく揺する。  七世、七世と呪文のように、数えきれないほど、名前を呼んだ。倉知は俺を見下ろして、慈しむように、優しく髪を撫で、頬を撫で、緩く、たまに強く、腰を振った。  しばらくそうやって、同じ体位のまま快感を貪っていたが、やがて倉知が動きをみせた。  正常位の状態から、俺の背中に腕を回す。上体を起こされ、太ももを抱え上げられたとき「あ」と声が出た。 「駅弁禁止って言っただろ」 「でも、したい。今日、俺の誕生日です」 「駄目、ほんと、またイキまくるじゃん」  意識をなくして強制終了になるのが惜しいから言っているのだが、倉知が言うことを聞かない。 「いいじゃないですか。イキまくる加賀さん、すごく可愛いです。イキまくるとこ、見せて」  嘘だろ、あの、倉知が。俺の言うことはなんでも尊重するあの倉知が。折れる様子がない。  これが、大人になるということか。  妙な感動がある。目頭を押さえる俺を見て、倉知が慌てた。 「やめた、やめます、やめましょう」 「何その三段活用」 「駅弁でお腹いっぱいになって、しゃぶしゃぶ食べられなくなりますもんね」 「さすが誕生日。絶好調じゃねえか。ていうか、すげえドヤ顔だなおい」  倉知のほっぺたを両手でつねってこねくり回す。  二人で爆笑する。  キスをする。  律動を再開し、セックスに、熱中する。  二人ともが達すると、シャワーで汗を流し、夕飯を食べることにした。  テーブルの中央に置いたカセットコンロに、しゃぶしゃぶ用の鍋をセットする。 「ビール? ワイン? ウイスキー? チューハイ? なんでもあるよ」 「ビールで」  冷蔵庫からビールの缶を二つ出して、乾杯した。 「誕生日おめでとう」 「ありがとうございます」  喉を鳴らしてビール缶を傾ける倉知を見ながら、微笑んだ。  大人になった。 「あ、そうだ、プレゼントあるんだった」 「えっ、こんなに幸せな時間をいただいたのに、さらに?」 「はは、ただのネクタイだよ、ごめんね」  肉をくぐらせながら肩をすくめると、倉知が天を仰ぎ、胸を押さえた。 「嬉しいです。ネクタイ、嬉しいです。加賀さんに貰ったネクタイ、毎日学校に着けていけるなんて、夢のようです」 「え、そんなに?」 「早く明日にならないかな。あ、駄目だ、今日俺の誕生日だった。明日より今日、今日より明日、どっちかな、選べない。加賀さん、大好きです」 「なんか倉知君面白いな」  率直な感想が漏れた。  倉知が肉を口に放り込んで、目を閉じる。 「幸せ」  つぶやく倉知は少し、涙ぐんでいた。  食事を終えて、後片付けをして、また、ベッドに戻った。  一心不乱に、セックスに、耽る。  好き、好き、と囁かれ、体も心も満たされて、とろけていく。  ひたすらに、甘い夜。 〈倉知編につづく〉
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