夢幻の道標〜神皇帝新記 第一章の上〜

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『序』 螺旋状の階段を昇る自らの足音だけが規則正しく響いている。先刻まで耳に届いていた喧騒は止んでおり、ふと歩みを止めれば、静謐な時に包まれる。目指しているのは、この螺旋階段を昇り切った先。通称、天の園。  男は再び歩みを進め、静寂を破った。等間隔に置かれた燭台で燃える蝋燭の灯りは、長年放置されていた影響からか弱々しく、決して十分な明るさを辺りにもたらしてはいなかったが、心を落ち着けるという一点で見れば、何ら支障を来すものではなく、寧ろその塩梅が心地良かった。  落ち着きを取り戻すと共に心には余裕という余白が生じ、その余白を埋めるべく、心の振り子は過去へと振れた。天の園へ一歩一歩近付く中、男はここまでの道程に思いを馳せた。 有り体に言ってしまえば、長き道程。しかし、その長き道程の中身を満たすありとあらゆるものを走馬灯のように駆け巡らせたとしても、一体どれ程の時を要するか。そう思った男の顔には微苦笑が浮かび、この微苦笑は落ち着きというものをまた少し男へともたらした。  過去との邂逅は、いずれ然るべき時へ譲り、今はこれから為さなくてはならない大事へ我が身の全てを傾注しなくてはならない。落ち着きと共に芽生えたその思いを実践すべく、男は螺旋階段の先を見上げた。視線の先にあるのは、天の園。  天の園へ立ったならば、その始まりを止めることはできない。この姿形だけでなく、心の裡にあるものも含めて全て、偽ることなく、飾り立てることなく、ありのまま、あるがまま、晒し出さなければならない。その結果、どのような反応があり、何が起ころうとも、それらを受け止めて導き、未来へと進んでいかなくてはならない。  果たしてそれは自らが望んでいることであろうか。幾度となく繰り返してきた自問。運命の残酷さを呪い、身悶え、孤独を抱え、寂寞に包まれ、それでも温かさに触れ、繋がりを認め、宿命に導かれた。そして辿り着いた自答。辿り着けたからこそ、今ここにいる。そう、今ここにいるのだ。  湧き上がる昂揚感と共に足早になりかけた自らを律した。周囲の評価が気になることは無かったからこそ、自己の評価にはいつも厳しく当たってきた男は、「まだまだ未熟だ」と敢えて言葉として発することで、昂揚する心を抑止する力とした。無へと、限りなく無に近付けるよう努めた。我が身から、我が心から、感情や想いが染み出し、昇華してゆくように。辺りの温度が少し下がった気がした。ひんやりとした空気が流れる。 空気の流れ? 風? 完全に閉ざされた空間である。風が吹くことは無い。だが、男は風を感じた。それは、新たな時代の到来を告げる息吹だったのかもしれない。残り少なくなっていた感情や想いというものが、その風と共に去ってゆく。  無の訪れ。身も、心も、無に包まれた。 螺旋階段を昇り切った先は踊り場になっている。人が二人も立てば、いっぱいになってしまう程度の広さしかない。 男は、踊り場に立った。目の前には扉。鉄製の扉は、ここそこに錆が浮き立ち、長く閉ざされたままであることが、容易に理解できる。扉の右上端と左上端の二か所には、紋が刻まれている。男は、紋の縛から一度は抜け出し、再び紋の裡に戻ってきた。 扉の前で男は大きく息を吐いた。それはまさに、新たな時代の到来を告げる息吹である。男は扉に手を添えた。その手の甲には星形の紋章が複数見て取れる。 何事も生じないまま、どれくらいの時が流れたか。突然、扉に添えた手の甲の紋章達が光を帯び始め、次第に光量を増してゆく。あっという間に夥しい数の光線となり、入り乱れるように辺りを駆け巡った。まるで意志を持ち、生きているかのように飛び回る無数の光線は、次第に男の手の甲の紋章と同数の光の帯にまとまり始め、それぞれの紋章へ突き刺さるように注いでゆく。 やがて、紋章が全ての光を吸収した。その刹那、扉は消失した。開いたのではなく、消えたのだ。 遥か彼方の過去にて閉ざされた後、幾星霜を経て、天の園への道が再び通じた瞬間だった。 彼は瞳を開いた。低い天井がそこにあり、無数の染みが見て取れる。まるで今の自分の心のようだ。白地図のように真っ新だった心の時から、幾つもの出来事を重ねて心は汚れ、その汚れは染みとなり、削り落とそうとしても消せなくなった。 後悔や蹉跌は数え切れない。別の道程もあった筈と夢想したことも一度や二度ではない。だが、今ここにいる。これから為さなければならないことがある。たとえ正しい解ではなくとも、自分の生きる道として歩んできた最果てが今なのだ。 彼は上半身を起こし、たった今まで横たわっていた長椅子の上に胡坐をかいた。薄暗い部屋は黴の臭いで満ちている。昨夜、数年ぶりに足を踏み入れた生家。最期になるであろう一日の目覚めは、やはり生家で迎えたかった。それは、僅かに残った人としての心の在り様なのかもしれなかった。  彼は立ち上がった。そのまま歩みを進め、外へと通じる扉に立てかけておいた長槍を手に取った。しっくりと手に馴染む。繰り返した修練、数多の実戦を通じて自分の身体の一部のように扱える相棒。そんな表現がぴったりとくる。上段、中段、下段、順に構えを取った。ゆっくりと振る。やはり良い槍だと思った。そしてこれまでの共闘に感謝の念を捧げるよう、槍を頭上に掲げた。  今日、この相棒は必要ない。それは共闘の日々が終わったことも意味している。「さようならだ」そう呟いた。これ以上の贅言は要しない。彼は頭上に長槍を掲げたまま歩き、長椅子の前まで戻った。ゆっくりと右ひざを着き、長椅子の上へ長槍を横たえる。同時に瞳を閉じた。  僅かな時の後、再び瞳を開くと、彼は立ち上がった。踵を返し、扉から家の外へ出る。その間、一度も長槍の方へは振り返らなかった。  外へ出てみると、その眩しさに瞳が眩んだ。太陽はまるで平等の象徴であるかのように、分け隔てなく万物へ燦々と光を注いでいた。  平等。その言葉に彼は強い嫌悪を隠せない。言葉はあっても、それを実現している世界は、古今東西、悠久の時をいくら遡っても皆無だと思っている。そして断言する。未来永劫、それを実現した世界が存在することも無いだろう。 では何故、そんな言葉があるのか。 それは、そうであると錯覚させたい一部、権高な者たちが作り上げたからだ。まさに机上の空論に他ならないが、同質性を持ち、魯鈍な人々の多くは気付かない。 平等と対極に位置するのは格差であり、世界には格差が蔓延している。格差があることで、この世界は成り立っているともいえる。強者と弱者、勝者と敗者、持つ者と持たざる者……。強者や勝者は無謬でいることを疑わず、その理論や理屈は弱者や敗者の上に悠然と横たわり、弱者や持たざる者が抱く幽かな希望や必死に紡いできた小さな夢を喰らい肥大し続けてゆく。 彼は、そんな世界に嚇怒した。吐き気を覚え、反吐が出た。怒り、憎しみ、嫌悪、そして殺意……。さまざまな負の感情が蠕動した。それでも、そんな世界の中で生きてきた。厭世的な気持ちを抱えながらも、生き続けるしかなかった。 やがて、負の感情は消えていった。負の感情を消し去ったものは、諦めだったのかもしれない。諦めも負の感情といえるのだろうが、繰り返した幾つもの諦めが、たった一つ、為すべきものを遺した。 そこからは愚直だった。別の道程もあった筈などという夢想は消えていき、為すべきものへ向かい、峻烈に進んできた。誰かを傷付けることに躊躇は無くなり、浴び続けた返り血は視界を濁らせていった。剣呑な眼差しの先は、常に赤霞んだ景色となった。 そんな生も、今日で終幕となる。これから為すことで、その後に世界がどう変わるのか。それは分からない。変化していく様を見聞きし実感することもないだろう。それでいい。乾坤一擲。己を刃と化し、干戈を交えるだけだ。突き刺し貫いた後、粉々に砕け散ったとしても構わない。 彼は太陽に手をかざした。それで降り注ぐ日差しは遮られた。「あっけないことよ……」と彼は嘲笑った。湧き上がる感情を抑えきれなかった。 その時、彼の手の甲に複数ある星形の痣が幽かに疼いた。それは、降り注ぐ日差しによって、今まさに覚醒したかのような疼きだった。 そうか。神の力を解放したか。 神の力……いや、悪魔の力だ。 その地下室は、一本の蠟燭だけの灯りしかなく薄暗かった。室内にいるのは老人と女の二人。老人は床に横たわり、その傍の椅子に女が座っている。 老人は、ありとあらゆる拷問の果て、まさに息も絶え絶えだった。 女は形の良い顎を両手の甲で挟むようにし、嫣然と悪に満ちた微笑で老人を見下ろしている。 老人の生命はまさに風前の灯。何故こんなことになったのかなどと考える余力は最早ない。この、何一つ希望も見出せない状況からの解放を、ただただ神に願うだけだった。 生殺与奪を握る女が椅子の上に立ち上がった。女神のような顔をした悪魔は今、両手に刃を携えている。 ようやく願いが叶えられる時が来た。老人は、そう確信した。 女は、人間離れした高さの跳躍で後方に宙返りを一つ加えると、老人の身体の下腹部に着地した。不安定な人間の肉体の上に一寸の乱れも無く静止する挙措は、容姿からは想像もつかない、女の身体能力の高さを示していた。 女は微笑を真顔に変えており、何ら感情のこもっていない眼差しを老人に向け、床へ降りた。老人の胸部には二本の刃が生え、既に絶命していた。
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