虚空の声

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虚空の声

 神八井耳命(かんやいみみのみこと)は、なぜ暴虐の兄を討たず、弟に皇位を譲ったのか。  はるかに時代を下った子孫の一人である安万侶は、その物語を祖父に聞かされた幼少の頃から、先祖の真実の声が虚空のどこかにまだ漂っているような気がしてならなかった。  大地は姿を変えても、空は変わらない。上古に発せられた言霊は、大空でまだ音色をたてている。安万侶は、そんなことを想う少年だった。  皇位を伝えてほしかったわけではない。神八井耳命の行蔵がどうであったにせよ、安万侶が高御座(たかみくら)の階に足を掛けることはない。子孫とはいっても、あくまでその一人、しかも嫡流から遠く離れた枝葉に過ぎないのだ。神八井耳命の血脈は畿内のほか、九州や信濃でも受け継がれている。  父は、神八井耳命から流れる太い血脈のひとつである多氏の嫡流にいる人であったが、安万侶は父の知らぬ間に生まれた子であったために多氏を名乗ることは許されず、かといって無氏のままであるわけにもいかぬので、祖父の案により太氏を冠した。  安万侶は、大海人皇子と大友皇子との戦いの地響きを背景音楽にして産声を上げた。  父は大海人皇子陣営の有力豪族の一人で、大和十市郡を本貫としていた。後世にいう壬申の乱がまだ兆しを現さぬ前に、その微かな軋みを聴覚に捉えた大海人皇子に命じられ、大和各地の豪族に秘密工作を施すため飛び回る途中の鄙びた村で、一人の娘に子種を宿した。  娘の懐妊を知らぬまま美濃へ飛んだ父は大海人皇子のために下準備を整え、戦端が開かれるや一軍の大将となって大和に進軍したが、安万侶を産んだばかりの母は、我が子を父親のもとへ連れて行く途中、戦のどさくさの中で命を落とした。  安万侶を父のもとまで運んだのは祖父であった。名もない村の名もない農夫にすぎない祖父は、娘の忘れ形見を抱いたまま殺気立つ軍陣にずけずけと立ち入り、大将の子を連れてきたと大声で叫んで退かなかった。  矛で突いても、矢を浴びせても退散しそうにない頑固な農夫に手を焼いた兵たちは、仕方なく農夫とその腕の中の赤子を大将のいる本営に連れて行った。  安万侶の父は豪族の氏長(うじのかみ)一般の傲慢さを持っており、一夜の色欲の相手となった女をいちいち記憶に留めていなかったが、かといって丸っきり薄情というわけでもなかった。祖父から出身の村の位置を聞くと、その村に立ち寄った夜の娘を知らぬとは言わなかった。一瞬、その夜の甘美さを偲ぶような目をした限り、安万侶の母は美体を持っていたのだろうが、父の目はすぐに困惑を浮かべた。  安万侶を拒否するわけではなかったが、ここは軍陣であり、これから戦いに臨もうかとしている最中であった。生後幾ばくも経たない赤子を差し出されても、むつきに包んでやることもできない。父は祖父に、とりあえず村に帰り、自分からの使者を待ってはどうかと提案したが、祖父は肯んじなかった。  父は渋面で側近を見渡したが、妙案を出す者はいなかった。祖父が安万侶を背負ったまま軍の人夫となることを提案し、その申し出を受け入れる形で、父は安万侶と祖父の従軍を許した。側近のうち世辞に長けた者は、戦を前にして新しい命を迎えることができたのは幸先がよい、と上手なことを言って、父の強ばった感情を少しでも解そうと試みた。  実際、祖父の背に負われた安万侶の泣き声は、父の軍に活気をもたらした。  軍隊は一般的に死を生んでいく集団である。その集団の中に、日々育っていく命があるというのはどうにも不思議で、安万侶の声を聞いた兵たちは、どうしても自分の明日の戦いに不吉な未来図を描くことはできなかった。安万侶の泣き声の中に、魂を揺らされるような音色を聞いた兵も多かった。  そのおかげか、父の率いる軍は連戦して連勝し、伊賀と大和の国境近くの莿萩野(たらの)の守備を命じられた際には、大友皇子陣営の急襲を見事に撃退した。父の戦働きの甲斐あって、大海人皇子は古代最大の内戦に勝利した。  大海人皇子は近江の大津にあった(みやこ)を大和の飛鳥に遷し、即位して天武天皇となった。  安万侶の父は武功を認められ、天武天皇を中心とした飛鳥朝の政体が整うと、新しく制定された八色の姓のうち、第二位に当たる朝臣の姓を授けられた。第一位の真人が皇族に与えられた姓であることを思えば、実質的に臣下では最高の姓を与えられたことになる。父の栄達は、しかし安万侶と祖父には、それほどの福音としては届かなかった。  父の本貫である十市郡から東北、春日山の影がようやく落ちる辺りの山間部に、安万侶と祖父は小さな屋敷をもらった。二人が生きていくに最低必要な支援は受けられることになっていたが、根っからの働き者である祖父は、生活支援を断る代わりに田と畑をもらった。そこで育てた米や野菜を市で売り、冬には藁細工を編んで、祖父は安万侶の将来のために蓄財した。  祖父は、安万侶のもっとも身近な人でありながら、安万侶にとってもっとも謎を秘めた人でもあった。  農夫であることには違いない。祖父の作った米や野菜は品が良く、市では奪い合うようにして売れた。そのくせ、陽の匂いはするが、土の匂いはあまりしない。そして、安万侶の人生を導くことになる不思議なものを知っていた。それは、文字である。真名(まな)、つまり漢字だ。   朝廷(みかど)の中枢にある者ですらその真の意味を理解し、使いこなすまでに相当の努力を要する大陸舶来の象形を、鄙びた村の農夫にすぎないはずの祖父は、もいでももいでも新たに実る果実のように取り出しては、安万侶に与えた。  農作業の合間や食事時、就寝前などに祖父から真名を教わった安万侶は、たちまちその魅力に取り憑かれた。指先に乗るほどの小さな象形が、森羅万象を表わす。真名に宿る言霊の玉響(たまゆら)のごとき音色に、安万侶の魂魄が共鳴した。  もぎたての果実のようにきらきら輝く真名の一文字一文字は、やがて連なって物語となり、安万侶の心の目に鮮やかな光彩の映像として浮かび上がった。その場景のひとつに、神八井耳命の佇立する姿があった。
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