真名への旅路

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真名への旅路

 安万侶は少年期を終えた頃、祖父の知る昔語りの大方を聞き終え、その物語を全て真名で書き表せるようになった。安万侶と祖父との生活に、ひとつの区切りがついたのだ。  ある冬の一日、藁細工などを市に運んだ祖父は、常ではない空気を伴って帰宅すると、腕を組んで深い思いに沈んだ。腕が解かれたのは夜明け方であったが、祖父はそのまま京へいくと告げて家を出て、数日、戻らなかった。  祖父が戻った日は、今年の初雪が降ろうかという冬の最中のことであったが、祖父は大きな麻袋を背負って帰ってきた。  祖父は屋敷の板敷きに安万侶を呼び、向かい合って座った。矮屋のこととて、家の中でも息は白かったが、祖父のしつけを受けた安万侶の居ずまいに乱れはなかった。とはいっても、祖父の背後に置かれた麻袋の中身に興味を覚えなかったわけではない。 「安万侶よ、難波津のことは覚えておるな」  祖父はそう切り出した。一昨年、祖父に連れられて、天武天皇が難波に築いた羅城を見学に行ったのだ。四方を壁で囲んだ大陸風の城塞は珍しく、その日の光景と驚きを安万侶はよく覚えている。 高天(たかま)の支柱であるかのようにそびえ立つ羅城の姿を、安万侶は巍峨(ぎが)という真名で記憶した。巍も峨も山が高く大きい様を表す象形であるが、圧倒されるような迫力と高く青い天とを同時に記憶することによって、巍峨という真名は安万侶の心象風景で躍動する言霊となった。 「明日、(みやこ)の父上の屋敷へ行きなさい。そこから、難波津に向かうのだ」  安万侶にとって予想外の旅行を、祖父は命じた。朝廷(みかど)において有力な地位にいる父は、しかし安万侶にとっては遠い人であった。父の名が燦然とした輝きを放つとしても、自分はその日陰にいることを安万侶は自覚していた。 「なにゆえですか」  とは問わないところが、安万侶の行儀の良さである。しかし、孫の瞳に細波が立ったのを祖父は見逃さず、感情のうねりを宥めるような口調で、父のもとへ赴けというその理由を語った。 「白村江(はくすきのえ)の戦役の話はしたな。我が朝廷にとっては百済を救済するための大義ある戦いであったが、多くの将兵を犠牲にしてしまった」  のちに錦江と名を替える百済の白江が海に注ぐ水域で、唐と新羅の連合水軍に戦いを挑み、大敗した。白江を白村江と呼ぶのは、白江の河口に白村という城または柵を巡らした防御施設があったからだという。 「戦地で捕らえられ、虜囚とされてしまった将兵たちがいるのだが、その中の数名が新羅の船に送られて難波津に帰ってくる。世間で白村江の話をする者は僅かになったが、朝廷と百済のために海を渡った将兵たちが皆もどってくるまで戦役は終わらぬ。それはともかく、帰還する将兵たちは戦役の実体験を濃く言霊に宿しているだろう。捕虜として生活するために生きた真名も多く学んだに違いない。そなたは難波津に出向き、彼らを迎え、彼らの生の声を聞いてくると良い」  神代からの物語をすべて言霊で奏でたいと願うのであれば、戦いという場裏を実体験した者の声は貴重である。神代にも戦いは数多くあった。その場景を言葉に表わすには、その場景を知る声を聞くべきである。その論理は理解できるが、野人の子同然の自分に、その声を聞かせてくれる帰還兵がいるのだろうか。安万侶は、その疑問は口にした。 「王宮でも、帰還兵の話を記録するために、すでに録事(ふびと)を選抜しているそうだ。そなたは彼らに同道させてもらうといい」  祖父はそう教えたが、安万侶の困惑は広がるばかりだ。録事は位階の高い身分ではないが、朝廷から官位を得た役人であり、彼らが墨染めの粗衣を着込んだ野人の子を同道させてくれるとは思えない。 「ゆえに、父上の屋敷へ赴く必要がある。すでに話は付けてある。そなたは多氏の一族の者として、録事に同道させてもらうことになっている」 「しかし、私の姿を見て、今をときめく多氏の人間と誰が思うでしょうか」  自分の出自を証明するものがない、と安万侶は言うのである。孫の危惧を真顔で受け止めた祖父は、おもむろに振り返り、後ろの麻袋を取り上げて、安万侶の前に置いた。  祖父に促されて麻袋の口を解いた安万侶は、中から桐箱を取り出した。香気を放つ桐箱の蓋を開けると、中には真新しい練絹(ねりぎぬ)の衣帯が納められていた。そして、小振りではあるが、一振りの鉄剣も同梱されていた。  安万侶は目を見張った。同時に、眩しさに目を逸らした。桐の箱が光を奔出させたようだった。 「これで、そなたを野人の子と思う者はおるまい」  鉄剣は貴族の証である。衣帯にしろ、剣にしろ、施された装飾は華美が抑えられたものだったが、それがかえって清涼感を匂い立たせ、気品を高めていた。  安万侶は不思議に思った。先日、祖父が家を空けたのは、京の父の屋敷に滞在していたに違いないが、これほどのものを即座に用意できるものだろうか。もちろん、朝廷の顕位にある父の庫にはこれ以上のものが納められているに違いないが、祖父が持ち帰ってきたのはいずれも子ども用のものである。袖を通し、剣を腰に帯びて確信したが、これらは安万侶の背丈にあつらえたものである。 「父上は、そなたのことを忘れているわけではないのだよ」  ここではじめて、祖父は優しく微笑んだ。その笑顔も言葉も、安万侶の心地の深いところへまで染み込んだ。  翌日の朝まだき、安万侶と祖父は矮屋の粗門の前に立った。安万侶は髪を結い、真新しい練絹の衣帯を身につけ、剣を帯び、脚帯(あゆい)をりりしく結んでいる。その輝く姿は、冬の早朝の暗さを弾くようであった。誰の目も疑わぬ、立派な貴族の子弟がそこにいた。  やがて雲間から射し込む光の帯よりも、安万侶は輝いているに違いない。神八井耳命の血は、確かにこの子に宿っているのだ。祖父は、血脈の不思議さに打たれたように目を細めた。  感慨は、安万侶においても深かった。予感がある。この出立は、言習(ことなら)いの新しい道をゆく旅出となるだろう。昨日までの道で手を取り支えてくれた祖父は、新しい道には寄り添わぬ。ここからは自分の足で歩いてゆく道だ。言葉を教わる道ではない。自分の言葉を生んでいく道なのだ。  矮屋の屋根で夜明けを待ってい花鶏(あとり)が俄に飛び立った。鳥は天神の使いという。神が安万侶を急き立てているのだ。 「わしは、いつもここにおるよ」  祖父の言霊に、あふれるほどの愛があった。鍾愛とはこれであろうと感悟した安万侶の心地に、祖父との日々が鮮やかに投影された。  真名の道を究め、祖父のもとへと帰る。風樹の嘆をかこつまい。安万侶はそう固く誓って、今日からの道に踏み出した。
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