二人の皇子

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二人の皇子

 安万侶の父は少し前、同時に二つの依頼を持ちかけられていた。ひとつは安万侶の祖父からのものであり、難波津に到着する帰還兵の話を聞いて見聞を広める機会を与えてやってほしい、というものだ。長らく虜囚として大陸で生活していた帰還兵から聞く大唐の話がいかに貴重であるかは理解できるし、春日山麓に暮らす息子を実は忘れたことのない密かな愛情を秘めている父は、すぐに手を打った。王宮から難波津に向かう録事の長が懇意であったため、息子の同道を頼んだのだ。  ふたつめの相談は、少し面倒だった。川島皇子と舎人皇子もお忍びで難波津へ向かうため、その護衛を依頼されたのだった。 天智天皇の皇子、それも第二皇子という川島皇子は王宮で微妙な立場におり、自家の人間を動かして誤解を招くような面倒を起こしたくない、という皇子の意向であった。  安万侶の父の人柄を見込んでの皇子の依頼であったが、父とて、いずれ火中に投じられるやもしれぬ栗に指紋は残したくない。そこで考えたのが、世間には知られていない安万侶を用いるという方策だった。  安万侶を護衛に付けるということで、川島皇子からの内密の依頼には一応こたえたことになる。その安万侶は王宮の録事と同道する。結果的に、録事が皇子の護衛をすることになる。そういう算段が誤魔化しであることは理解している父であったが、懇意の録事の長は父に恩を受けていたので、渋面ながらも父の算段を受け入れた。王命を受けて難波津に向かう道中で、たまたま二人の貴人と道を同じくしても咎められることはない、という録事の長の算段もあった。  難波までの道は、まずは古代大和の幹線道路というべき下ツ道をゆく。王宮を中心とした町並みを城壁で囲う都城という段階にまだない飛鳥京では、路が道に切り替わる辺りが郊外になる。  川島皇子の一行は、高楼の雅な景色が原野の風光に替わる辺りで足を停めた。  野には様々な鬼神や霊がいると信じる上古からの風習を引き継いでいる川島皇子は、ここで、この旅路が地祇や精霊から祝福されるよう祝詞を述べようとした。  あらかじめ用意していた祝詞を読み上げた川島皇子は、小首を傾げて立ち止まったままだった。皇子の声は佳い声だが、それは人に愛される声であり、神霊に愛される声ではない。朗々とした祝詞は冬空に吸い上げられただけで、大地に染みこんだという感触がない。  川島皇子がそう考えて足を動かさないのだろうと察した舎人皇子は、思いついたというような顔を川島皇子へ寄せた。  舎人皇子の提案に賛同した川島皇子は、最後尾にいる安万侶を手招いた。用意していた祝詞を安万侶に述べさせたところ、ひと言ひと言の言霊が大地に染みこんでいく様がありありと感じ取れた。安万侶の声のあまりの清々しさに、おもわず膝を地に着いた録事がいたほどだった。 「おお、まるで伊勢の斎宮のような」  川島皇子が感嘆の声をあげると、 「多氏が血を継ぐ神八井耳命は、畏くも葛城の高丘宮で天の下を治められた天皇の御代に神祇を掌っておられたのです」  と、古伝のひとつを披露して、舎人皇子は得意げな笑みを浮かべた。葛城の高丘宮で天の下を治められた天皇とは、神八井耳命から日嗣の位を譲られた二代綏靖天皇のことだ。  一行の最後尾にいた安万侶は、この一件で、二人の皇子と影を重ねる近さを歩くようになった。録事の長も一目を置くようになった。 「さすがに多氏。まことに良い護衛を付けてくださった」  生身からの害意よりも目に見えぬ霊魂からの祟りをおそれるこの時代の貴族であるから、安万侶の存在は百の武人よりも頼りに思われたのだ。  難波津までの道のりは、山野で足腰を鍛えた安万侶であれば二日の行程だが、予想外の健脚さを見せながらも京くらしの二人の皇子にはもう一日が必要だった。  難波津に到着したのはこの歳の暮れが近づいた日の夕べで、冷え込んだ大気の中にも春の色を含んだ夕景色だった。難波の背後の高台に築かれた羅城の雄偉な影が、過ぐる日の祖父との旅を思い出させた。祖父が葦の葉を巻いた葦笛で吹いた音色が、心耳に蘇った。  二人の皇子は離宮に入った。川島皇子は好意を示したが、録事の一行は、あくまで別行動であることを明示するためか、津ちかくの(むろつみ)に宿をとった。安万侶も録事一行に従おうとしたが、川島皇子の断っての願いで離宮に泊まることにした。必要以上の皇子との昵懇は父に迷惑を及ぼすかもしれないが、この旅は安万侶が祝詞を挙げた旅である。皇子の好意は神霊の好意でもあるから、安万侶は思し召しに従うことにした。  一室に皇族と臣下の子が同席するなど畏れ多いこと甚だしいが、川島皇子も舎人皇子もまったく意に介していなかった。  三人で夜を過ごしていると、道中ほがらかであった川島皇子よりも、実は舎人皇子の方がおしゃべりであることがわかった。聡明でありながら安万侶に対してすら礼儀正しく、不敬ながら、まるで里の従弟のように思えた。 「我がなにゆえ難波津まで参ったかと申すと」  誰にも問われず、川島皇子は話し始めた。川島皇子にだけ、少し酒が入っている。  川島皇子の王宮での立場は微妙である。いまの朝廷が、天智朝を継ぐ大友皇子を打ち倒して成立した政権である以上、天智天皇の血を引く川島皇子は潜在的な脅威であった。そのため天武天皇は娘を嫁がせ、後世に吉野の盟約として伝わる天武朝千年無事を誓う会盟の場に同席させながら、諸王としてはそれほど冠位の高くない浄大参に留め置いたのは、川島皇子に自分の影を見たからかもしれない。天武天皇が大海人皇子であったときに大友皇子を倒したように、川島皇子が次期天皇予定者である草壁皇子を倒すことがないとは言えないのだ。川島皇子が周囲に示す度量の広さは、天武天皇にとっては危険度の間口の広さに感じられたことだろう。  ある日、川島皇子は天武天皇から、帝紀と、上古の諸事を記した旧辞の編纂を命じられた。それはつまり、国史編纂事業である。  中大兄皇子が天智天皇となり、大海人皇子が天武天皇となる過程に生じた戦乱で、王宮や諸豪族に伝わっていた記録の多くが失われたり、虚実が入り交じったりしていた。この状況を嘆いた天武天皇が天孫降臨以来の歴史の編纂を命じた十二人の中心に、川島皇子がいたのである。膨大な作業量が予想されるこの王命事業に川島皇子を選んだのは、川島皇子を政権から遠ざけると同時に、皇室運営に手を出す暇を奪おうとする天武天皇の狙いがあってのことかもしれない。  天武天皇の思惑がどうあれ、王命を蔑ろにすることは大不敬であるし、そもそも帝紀や旧辞といった伝承や記録に大いに興味を持っていたことから、川島皇子はこの事業に没頭した。没頭した姿を見せることで、天武天皇の嫌疑をかわそうとしたのかもしれない。  政権や皇位に興味がない者にとって、時の権力者から疑われることほど心外で面倒なことはない。度量広く朗らかに見せておきながら、実は川島皇子は慎重だった。天武天皇崩御後に起こる大津皇子の謀反にも一切かかわらなかったし、いま、安万侶の前で寛いでいる服装にもその慎重さが現れていた。  川島皇子が身につけている服装は朱花色(はねずいろ)である。天武天皇は冠位制度の見直しと各位における朝服の色を制定しようとしていたが、諸王の朝服の色を朱花色にしようとしていたのである。その情報を得た川島皇子はすばやくその色に染めた朝服を身につけることで、先んじて天武天皇の意に沿おうとしている自分を演出しているのだ。 「という次第で、難波くんだりまでやって参った。天地開闢から続く天孫の御子の歴史はまことに興味深い。しかしながら残念なことに、上古には文字がなかった。口伝に残っている言葉を文字に表わすには真名に頼るほかなく、記録を読み解くには真名の理解が必要だ。そのため、大唐で本場の真名に触れたであろう帰還兵に学び、また白村江の戦いについても、その実体験を聞こうというわけだ」  帰還兵を京の邸に呼び寄せてもよいのだが、皇子が自ら足を運んできたという事実が帰還兵の心を和らげ、真の言霊を紡ぎ出させることがあるだろう、と川島皇子は言った。帰還兵はいずれ王宮で天皇に謁見を許され、長年にわたる労苦を癒やす言葉を賜り、白村江の戦いの真実を語る機会を得る。そのときに、朝廷にとって都合の悪い言葉の封印を命じられてしまえば、真実の言霊は行き場を失ってしまう。その前に、非公式に話を聞いておきたい。 「そのお陰で、わたくしは随分な迷惑をこうむっているというわけです」  と、舎人皇子が言った。 「真名を知るには、真名に明るい皇子の力がどうしても必要だったのだが、やはり迷惑であったか」 「戯れ言です。お誘いいただいて、本当はうれしく思っております。旅は人を見せてくれますし、山紫水明を教えてくれます。人を知り、風景を重ねてこその真名でございます」  そう言って、二人の皇子は親友のように笑い合った。歳は二十ほども離れているが、川島皇子は舎人皇子を決して年下扱いしなかった。  実際、舎人皇子はまだ十歳にも満たないとは思えないほどの、真名に関する途方もない知識を備えていた。神がかり的な博聞強記である。  難波滞在中、安万侶は舎人皇子と多くの時間を過ごした。舎人皇子の言習(ことなら)いの姿勢と思想には安万侶と通いあうものがあり、そのことが二人の距離を急速に縮めた。  真名について語り合うたび、安万侶は巻く舌が足りない思いがするのだった。同時に、嫉妬を感じもした。祖父との日々が色あせるような思いだった。上には上があるという真理を知る心の片隅で、祖父と自分も、もしも京の文庫が常に傍らにある生活をしていたなら劣ることはないのだ、という対抗意識が頭をもたげてくるのだった。  反対に、舎人皇子は、純粋に安万侶に懐いてきた。皇子にとっても、安万侶は瞠目すべき少年だったのだ。自分の持つ真名の知識を受け止められる人の存在を、皇子は初めて知ったのである。  夜更けまで楽しそうに語り合う二人の姿を細い眼で見て、 「やはり多氏に頼んでよかった」  と、川島皇子は満悦するのだった。そして川島皇子が引き合わせたといっても良いこの二人が、後年、文化史上大きな事業を成し遂げるのである。  川島皇子が宿舎に足を運び、その熱意に応えて実体験をひとところも余すことなく語ってくれた帰還兵は、名を猪使連子首(いつかいのむらじこおびと)筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)と言った。彼らが語る白村江の物語は生々しい迫力があり、大陸の虜囚生活で培った真名の知識は、さても豊富な知識を持つ舎人皇子を興奮させた。  王宮の録事も同じように帰還兵の宿舎に足を運んだが、同じ話を聞いても、川島皇子たちほどには言霊を感じ取ることができなかった。天皇の耳を汚すような言葉を事前に除去し、王宮に提出する記録をまとめるだけの彼らには、それで十分であった。  難波津で得た情報は、舎人皇子と安万侶がたちまち真名に書き表した。真名が森羅万象を表わす象形であったとしても、真名で大和言葉を記すのは一筋縄の作業ではない。しかし二人合わせても川島皇子の歳に追いつかない舎人皇子と安万侶は、その作業を短時間で成し遂げた。この記録が、国史編纂事業に大いなる成果をもたらすであろう事を確信すると同時に、川島皇子は、京に帰れば、すぐにでも安万侶を朝廷に推挙することを決めた。
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