渇望の秋(とき)

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渇望の秋(とき)

 飛鳥京の父の屋敷に戻った安万侶には、部屋が用意されてあった。日陰の一舎ではあったが、そこで幾月かを憩ううちに、父が国境策定事業を終えて帰ってきた。  一夜、目の前に座った安万侶に以前ほどの堅さがないことを見た父は、顔色に出すことなく安堵した。  父は、安万侶の前に、目が眩むような絹布をいくつも置いた。貨幣の流通がまだ限定的で、売買は物々交換が主であったこの時であるから、質の良い絹布は大金と同じだった。 「部屋は用意したが、日々を養ってやるほどの余裕はない。これを使って生計を立て、また、下学上達に精励するとよい」  絹布を授けようとする父の言葉を、安万侶は辞退した。子供じみた頑なさに思わず相好を崩した父は、 「これは過日、そなたの祖父から託されたものだ。そなたのために、祖父はずいぶん働いたのであろうな」  と、真相を明らかにした。その事実を心の深いところで重く受け止めた安万侶は、 「祖父を、この屋敷に呼び寄せることはかないませぬか」  と、真摯な目を父に向けた。父は安万侶の瞳の光にまぶしげに目を細め、 「そなたの祖父は、最後になんと申した」 「…いつもここにおるよ、と」 「ならば招いても参るまいよ。そなたが望みを成し遂げ、祖父のもとへ帰るしかない」  突き放すような言い方をしてから、ふと目許を和らげた父は、 「励めよ」  そう言い渡して、安万侶を退室させた。  自舎に戻った安万侶は、庭に降り、沈丁花の香りの中で星空を見上げた。  いつか祖父は、星の数ほど真名はあり、全ての真名は意味を持つ、と安万侶に教えた。真名の意味とは、象徴であり、風景であり、時の移ろいであり、天地の物語である。  いつか宇宙を真名の言霊で描き表わしてみたい。安万侶の成就せねばならぬ望みは、それである。  朱鳥元年、天武天皇は飛鳥京で崩御した。前年に病を得て以来、すでに政治は皇后と皇太子の草壁皇子に委ねていた。天武天皇が崩御してまもなく大津皇子の謀反が発覚し、その鎮圧はすばやかったものの、もともと朝廷の一部には草壁皇子を大津皇子より能力的に劣ると考える暗流があり、草壁皇子を正当な後継者として認識させるための演出に二年あまりを費やした結果、なんと草壁皇子も病で世を去ってしまう。天武天皇の殯宮の喪主となり、皇族や臣下を率いて一連の葬礼を繰り返し、世間に皇位継承者の正当性を広めている最中の薨去だった。  結局、天武天皇の皇后であり、草壁皇子の母である持統天皇が即位した。彼女自身は草壁皇子の忘れ形見である軽皇子への皇位継承を望んだが、天武という大黒柱を失った朝廷を支えるには、その時わずか七歳の童子では、その立太子すら憚られたのだ。  持統天皇は夫の政策を継承し、発展させた。持統天皇治政の大事業といえば、飛鳥浄御原令の制定と、藤原京の造営が挙げられる。  王宮が藤原京へ遷されると、当然ながら、多氏の屋敷も大陸風条坊制の京へ移った。  成人した安万侶は、まだ多氏の屋敷の一隅で閑居する身である。多氏の一族であることは公認されたが、いまだ無位無冠である。難波津からの帰路、確かに川島皇子は朝廷での推挙を請け負ってくれたが、授けられた位を示す位記は届かなかった。朝堂の前にいつか立つきらびやかな自分を夢想していたわけではないが、待ち焦がれたことは確かだ。そして一日千秋の思いを抱いているうちに、なんと川島皇子は若くして世を去ってしまった。  川島皇子は朝廷に働きかけてくれたに違いないが、持統天皇が主導する律令政体は過渡期であり、遷都の賛否も取り沙汰される中で、王宮は多くの氏族を陣営に引き込まねばならず、そのため配分する位階に余裕がなかったのだろう。多氏は壬申の武功のある氏族だが、当の多氏の氏長(うじのかみ)である父が、積極的に安万侶を売り込んでいないのだ。  父にも事情がある。嫡子や多氏の他の子弟を差し置いて、末席にいる安万侶を推挙できるはずはない。何しろ、安万侶は多氏を正式に名乗らず、祖父と決めた太氏を名乗っているのだ。父はそれを責めないが、特別の気配りを施すこともなかった。  ともかく、川島皇子としては強いて推挙することができなかったのだ。天智天皇の血を濃く引く川島皇子が強く推挙すれば、多氏と一党をなしていると勘違いされることを慮ったのだろう。安万侶はそう理解して、川島皇子の大らかさと朗らかさとを偲び、難波津の日々の思い出を大切にしまっておくことにした。  祖父の蓄えのお陰で、日々の生活には困らず、貴重な漢籍を手に入れて不自由なく言習うことはできたが、成人となると、やはり体内に蓄積し行き場のない気力が疼くようになった。  真名を駆使し、言霊で宇宙を描きたい。  そのためには天地開闢以来の旧辞を余すことなく知る必要があるが、帝紀も含めてそれらは、王宮や朝廷の枢要に関わるような豪族の文庫に収められ、安万侶の目が触れることは適わなかった。多氏も有力氏族の一つではあったが、元々が武官であったため所蔵する書籍は多くはなく、それらはすでに韋編三絶するほどに読み返していた。  絵筆も、画板も、技法もあるのに、ただ画題が決まっていないもどかしさを、安万侶は空を見上げることで癒やした。  安万侶は家令の許しを得て、多氏屋敷の高楼に登ることがよくあった。そこから空を見上げるのである。京の三方を囲む耳成山、畝傍山、天香具山の深い緑が、空の青さに浮かぶ様は、いっとき、安万侶を鬱屈から解放してくれた。  遷都から二年が経つが、京内の槌音はまだ喧しい。本格的に着工されたのは六年前のことだが、事業自体は天武朝に立ち上げられている。一つの京でさえ、完成するには長い年月を要する。まして言霊で宇宙を形成しようというのならもっと長い時が必要なのだ。安万侶は、自分にそう言い諭す日々を送っていた。  父が病床に臥したのは、夏の暑さが残る季節のことだった。蜩の声が聞こえる病室で、安万侶は父を見舞った。  会話に弾みが生まれる関係の父子ではない。死病を覚悟していた父は、穏やかな面持ちを息子へ向けた。 「まだ祖父のもとへは帰れぬのかね」  父と祖父は、年齢にそう違いはないと思われる。 「あの男のことだから、並のことでは帰郷を許してくれぬであろうな」  父は弱く笑った。病が父の声から力を奪ってしまっているが、父が祖父を認めてくれているらしいことは、安万侶にとってうれしかった。 「そなたの祖父ほどには、そなたに何をしてやることもなかった」 「多大なご恩を頂戴しています」 「世辞はもはや不要だ。それよりも、償いというわけではないが、なにか望みがあれば申してみよ」  多氏を名乗りたいと望むならば、許すつもりだった。しかし、安万侶の望みは別のところにあった。 「古き事の(ふみ)を今以上に学ぶことはできませぬでしょうか」  王宮の文庫を覗きたいとは直言できなかったが、父は安万侶の意中を察した。しばらくして、安らかな笑みを浮かべた。 「それであれば、最後にそなたに良いことを教えてやれる」  父は昔語りを始めた。 「畏くも飛鳥浄御原宮で天の下を治められた天皇の御代、稗田阿礼という舎人が王宮に仕えておった」  天武天皇が壬申の大戦に勝利した翌年のことだ。真新しい飛鳥の京のまだ建設途中であった大極殿で、父は壬申の武功により天武天皇から冠位を授かった。そのとき、天皇の傍らに控えていたのが稗田阿礼であった。慎ましく、影のように静かだったが、父には、阿礼の身体から立ち上る陽炎のような光が見えたという。  稗田阿礼は、ひとたび見聞きしたものは決して忘れないという神業的な博聞強記の人だった。阿礼の発する光は、つまり神仏が発する光輪とおなじ類いのものだろう、と父は思ったという。  天武天皇は様々な方面で天皇の権威を高め、確立した。壬申の内乱を鮮やかに制し、冠位制度を改め、律令編纂に着手した。天武天皇の視界は文化的側面も逃しておらず、いわゆる白鳳文化を花開かせるとともに、歴史の撰集にも取り組んだ。蘇我から天智、天智から天武へと政権が移ろう過程で生じた戦乱により、天皇記や帝記など多くの書物が焼け、散逸した。豪族に伝わる旧辞には、その豪族に都合の良い脚色を施した内容が多く、玉石混淆した実情だった。そこで天武天皇は、川島皇子を中心にした十二人に上古諸事の真贋を見極め、正しいものを撰集するよう命じたのである。  一方、天武天皇は側に仕える舎人の阿礼にも、王宮の文庫に残る国記などの歴史書や諸豪族に伝わる旧辞を誦習するよう命じた。 なぜ二通りの命令を発したのか。  一方が成らざる場合に備えての保険という単純な話ではないはずだ。天武天皇の思考は、いつも父の及びも付かぬ深みにまで届いていた。  川島皇子達は、諸豪族に伝わる上古諸事を撰修する。その過程で、捨てざるを得ない物語もあるだろう。阿礼には、その捨てざるを得ない物語こそを学ばせたのではないか。文字ではなく、記憶として残すために。阿礼が天武天皇から与えられた本当の使命は、百万語を諳んじることではなく、その百万語を語り継げる後継者を探し出すことではなかったか。捨てられる物語にこそ真実が息づく、ということがある。
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