言霊を結ぶ

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言霊を結ぶ

 阿礼は、いつの日からか王宮から姿を消した。父が思うに、それは国記や旧辞を学ぶためであったであろうし、後継者を探すためでもあっただろう。阿礼が使命を果たしたのかどうか、父は知らない。父は、阿礼が王宮から姿を消した後、風の便りに聞いた阿礼の消息について噂話を語った。 「阿礼を探すとよい、安万侶。ふふふ、あやつは少し難しいやつだがな」  目を閉じた面差しに笑みを浮かべた父の話が、その辺りから曖昧になった。記憶をたどっているのか、夢を彷徨っているのかわからなくなった。部屋の隅で控えていた家令が、主人の体に支障を及ぼすことをおそれて、父子の会話を打ち切らせた。  その後しばらくして、父は亡くなった。多品治という人は治世ではあまり才能をきらめかすことのない人だったが、壬申の大乱での武功が示すように、やはり一代の傑物であった。重い中心を失った多氏は、朝廷のなかで目立たぬ存在となっていく。  父の葬儀に、懐かしい人が参列した。舎人皇子である。天武朝を引き継いだ持統天皇は夫が手がけた律令編纂を飛鳥浄御原令として完成させ、以来、皇子は親王と呼ばれる。つまり、安万侶と久闊を叙した舎人皇子は、舎人親王である。ちなみに、父の最終冠位は直広壱で、唐風には将軍位相当になる。武人としては誉れであるだろう。  川島皇子の事業を引き継ぐ一人であった舎人親王は、安万侶と二人だけの時間に、国史編纂の撰修作業についての愚痴をこぼした。撰修作業を協力して進める他の親王や廷臣には真名の理解が足らず、真名に込めるべき言霊についての理解はさらに足りなかった。協働する親王たちの中でこの時点の舎人親王は決して高い品位になく、舎人親王の意見はしばしば政治的な思惑に屈し、もどかしい状況であった。親しかった川島皇子が命を削るほど直向きに取り組んだ事業を、舎人親王は歴史に残る偉業として完成させたかった。 「私にお手伝いさせていただくことはできませぬか」  思わず、安万侶はそう言った。息苦しさの中で、舎人親王が小窓を開いてくれたような思いがしたのだ。舎人親王も、まるでその言葉を聞くために胸中を打ち明けたような反応を表情に示したが、微笑みから発せられた言葉は、安万侶の申し出を婉曲に断った。理由は問わずともわかる。無位無冠の安万侶には、国家事業に参画する資格がない。  父の葬儀は終わった。舎人親王とのひとときは、安万侶にとっては蜃気楼を掴んだ時間にすぎなかったが、幻影とはいえ、安万侶の心地に描かれたものがある。宇宙を言霊で描くという安万侶の生涯事業の、その朧気な姿が見えたのだ。  舎人親王は、多氏の家令に、一首の歌を預けた。 「安万侶様に、ということです」  困惑と一緒に現れた家令から歌を受けとった安万侶は、その歌を虚空に書くような目をした。  ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に たなびくまでに   何度か繰り返し呟いた安万侶は、次の日、日が落ちたばかりの甘樫丘にいた。かつて栄華を誇った蘇我氏の夢の跡である。山麓で威容を誇ったという蘇我蝦夷の邸宅は、今は焼け跡すらない。多武峰(とうのみね)を見はるかせば、遠く斉明朝の両槻宮(ふたつきのみや)の高殿が残照にたなびく夜霧の切れ間に、見えては消えた。  甘樫丘にいたのは安万侶だけではない。先客がいた。従者に灯りを持たせたその人は、安万侶を振り返り、我が意を得たりと微笑んだ。 「やはり来てくださいましたね」 「夜霧に古宮を偲ぶには、甘樫丘が一番です。それに豊浦大臣とともに多くの上古の言の葉が燃えたのならば、この丘の大気には言霊が漂っているはずですから、あなた様とお会いする場所に相応しい」  安万侶も微笑みを返した。豊浦大臣とは蘇我蝦夷のことであり、安万侶を待っていたのは舎人親王である。 「それで、私を歌でお招きくださったその真意をお聞かせください」  単刀直入に安万侶は言った。舎人親王も韜晦するつもりはない。多氏の屋敷ではどこに人の耳があるか分からないが、ここには従者以外の耳はなく、従者には全幅の信頼を置いている。 「やはり貴方のお力が必要です、安万侶殿。しかし、公には、貴方に勅命事業への参与を認めるわけにはいかぬのです」  安万侶は、舎人親王の続く言葉を待った。 「近頃、いまの世に伝わる歌を撰集し、歌集にまとめようという機運が朝廷や歌人の間で高まっていることをご存じですか。人に身分上下はあっても、歌にはございません。ひとたび言霊となって放たれたものは、詠人(よみひと)の身分如何に関わらず、人の心を玉響(たまゆら)すのでございます。しかし、人の心を玉響す言霊の調べは、残念なことに永遠ではありません。大気に上古からの言霊の響きは残り続けるとはいえ、それを聞くには特別の感性が必要です。すばらしき先人の歌、いまの世の優れた歌の言の葉を、万の後の世の全ての人に伝えようという熱意が、心ある人の間から湧き起っているのです」  その歌集は、後世に万葉集として知られることになる。天皇や貴族、官人ら多くの文化人の撰集作業を経て、最終的に大伴家持の手により全二十巻に編纂されたといわれる。その初期段階の撰者の一人として、安万侶の名も伝わっている。  万葉集が和歌の原点として時代を超えて詠い継がれる文化的影響力を持つことを、このときの安万侶はまだ知らない。ただ、無位無冠の身分でも参加できるその事業で能力を発揮すれば、国史編纂の勅命事業にも参加が認められるかもしれない、という光明が見えただけである。 「その機運に、私も乗ることができるのでしょうか」 「もちろんです。実は丘の麓の集落で、一舎を借り上げているのです。安万侶殿がもしよろしければ、私と共に、夜が明けるまで、いや幾日が過ぎようと、古今東西の優れた歌を詠み、その言霊に触れ、後の世に伝えるべき歌を見出そうではないですか」  安万侶と舎人親王は手を取り合わんばかりの足取りで丘を降り、麓の一舎に何日も籠もり続けた。  庶人の庵のような一舎には、千を単位に数えるほどの歌が用意されていた。歴代天皇や皇族、貴族や官人、防人や芸人、東人の詠んだものまで、安万侶と舎人親王は一首一首を交互に詠い上げては、言霊を解き放った。舎内は、星のようにきらめく言の葉で満たされた。星を結んで星座を形作るような作業に安万侶は夢中になった。  舎人親王と安万侶の手による数巻の歌集は、王宮や朝廷、文化人の間でたちまち好評を博した。この数巻の歌集が万葉集の一部となるまでにはなお数度の見直しを要することになるが、国史編纂の勅命事業に携わる人の意識を安万侶に向けさせ、瞠目させるに十分の効果があった。非公式ではあるが、安万侶は勅命事業の会合に招かれるようになった。  祖父と別れて以来、ようやく安万侶は生活に張りを感じるようになった。言霊で宇宙を描き出すその筆を、やっと手に握ったのである。  充実した日々は数年続いた。その間に、朝廷の主催者は持統天皇から文武天皇に遷っていた。  天武天皇が種を蒔き、持統天皇が心血を注いで育てた律令は、文武天皇の時代に大宝律令として開花した。冠位制度は官位制度へと改められ、その制度改変の過程で、安万侶は正六位下という官位を与えられた。  さらに、非公式ながら国史編纂事業で果たした数年間の功績を認められた安万侶は官位を進められ、従五位下に叙せられた。野の人の子として少年時代を過ごし、無位無冠の人として青年時代を過ごした安万侶は、ついに大夫という地位に列せられることになった。
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