幽明の舞い

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幽明の舞い

 猿女の里は夕もや朝もやがかかりっぱなしということはなく、晴れた日ももちろんあった。最初に晴れた日、安万侶は美しい主人の山居を見て驚いた。小規模な離宮ともいえるほどの優美な建物で、高楼も備えている。白砂を敷いた中庭があり、祭壇すらも備えられている。ここに、あの人は一人で暮らしているのだ。  春夏秋冬、猿女の里へ通う年月が過ぎていく。無言の時間は、しかし安万侶には苦痛ではなかった。家令に、妖魅に取り憑かれたのではないかと心配されながら、性別も年齢も定かならぬその人と過ごす無言の時が、愉しいとすら思えた。  安万侶が初めて、 「私は、神代から続くこの世の宇宙を言霊で描きたいのです。そのために、星の数ほどの真名を学びました」  と、意中を明らかにしたとき、阿礼と思しき美しい人は、少し驚いた表情を見せた。その人が見せた初めての感情だった。  その日から、安万侶と美しい人との関係に変化が生じた。その人は相変わらず寡黙であったが、歌を詠うようになった。上古の歌である。今このときの情景を詠ったわけではなく、安万侶に聞かせているわけでもない。それでも歌を詠んだ。その歌はどれも、美しい言霊の調べを持っていた。安万侶は、阿礼の歌を筆記した。  国史編纂事業は相変わらず蝸牛の歩みで、その間、京は藤原京から平城京へと遷っていた。新都建設の土埃に隠れていたが、舎人親王の地道な尽力は少しずつ形を成していた。その功績が認められ、叙位が行われた。事業に参画した者の一人と認められた安万侶は、正五位上となった。むろん、それで阿礼の態度が変化したわけではない。  安万侶に正五位上を授けたのは元明天皇である。文武天皇はすでに崩御しており、持統天皇のときと同じように、母である元明天皇が即位した。  叙位式典の最中、天皇の座の前に進む機会を得た安万侶は、思い切って奏上した。  舎人親王が中心となって進めている国史編纂事業は、国史という体裁を整えるために、伝承を伝承のままに記していない。そのことによって多くの貴重な言霊が失われている。帝紀や上古諸事の伝承そのままの言霊は、今、天武天皇に誦習を命じられた稗田阿礼の体内に息づいている。言霊の響きは千年続いても、人の身は百年で朽ちる。 「どうか勅命を賜り、阿礼の中に息づく言霊を、千年の後世にまで語り継ぐための(ふみ)に修めるようお命じください」  不敬とも見なされる安万侶の礼典外れの奏上を、元明天皇は戸惑いの目で聞いた。安万侶は深く一礼し、さっと退いた。  幸いなことに咎めはなく、さらに幸いなことに、安万侶の奏上は認められた。天武天皇の皇太子であった草壁皇子の正妃であった元明天皇は、皇位を継ぐことなく世を去った夫から、あるいは天武天皇の真意を伝えられていたのかもしれない。皇族に国史編纂を命じる一方、稗田阿礼に誦習を命じたその深意を。  稗田阿礼が誦習する古き事の言の葉を筆録するよう勅命が下ったのは、和銅四年九月のことである。  勅命を奉じた安万侶は、意気軒昂と猿女の里の阿礼の山居を訪れた。朝廷の権威を笠に着るつもりはさらさらないが、さすがに勅命を拒むことはないはずだという思いが、安万侶に、阿礼との関係における新しい展開を予想させた。しかし、阿礼は表情を変えなかった。わずかに瞼を開け、昔日の天武天皇を偲ぶような瞳を見せただけである。  陽が落ち、里と山居に赤紫の夕もやが立ち上がった。黒々とした影となった安万侶は失意の息を落とし、立ち去ろうとした。そのとき、ふわりと、薫香が漂った。安万侶が目を上げると、阿礼が立ち上がっていた。  思えば、この山居に通い続けて数年が経過しているが、阿礼の立ち姿を見るのは初めてだった。  背は安万侶より低いが、凜とした佇まいが長身に見せた。相変わらず性別は分からず、年齢も不詳だ。ただ、美しい。  すり足を送って風のように進んだ阿礼は、そっと浮いたかと思うと、中庭の白砂に降り立った。そのまま、祭壇の前まで進んでいく。安万侶も阿礼を追って中庭に降りた。  祭壇の前で、阿礼はこちらを振り向いた。祭壇の左右で、灯りが点じられた。いつかの童子と童女が、往時の姿のままで灯りを捧げている。この二人が、白狐と白狸の化身であることは、安万侶はもう知っている。  阿礼は、舞を舞いはじめた。神楽だ。息の乱れを少しも見せずに、阿礼は舞い続ける。ときおり、美しい声で祝詞を唱えた。  赤紫の夕もやが濃紫となり、星が瞬き、その光が消えても、阿礼は舞い続けた。安万侶も、息を忘れてその舞を見つめ続けた。  朝が白々と明けると、阿礼は糸を切ったように白砂に倒れ伏した。慌てて安万侶は抱き起こした。阿礼の身体はまるで無のように軽くありながら、朝日を浴びて、腕の中に有ると確信させる輝きを放っていた。童子と童女が導いた一室に阿礼を横たえた安万侶は、山居を退去した。  京が平城京に遷ったことで猿女の里は随分と近くなったが、それでも屋敷からの道程を惜しんだ安万侶は、里の一舎を借り上げ、そこで起居することにした。その一舎を訪れたとき、案内に出た娘は、阿礼の山居を教えてくれたいつかの巫女だった。 「あなたは」  安万侶の驚きを、巫女は笑顔で受け止めた。  それから、阿礼の神楽に見入る日を過ごした。夕刻から一夜を舞い続けた阿礼は、朝になって安万侶の腕の中に伏す。そんな日々だった。  ある日、ようやく安万侶は気づいた。あわてて文机を運び出し、白砂の上に置いた。筆を走らせる。  阿礼の唱える祝詞はただの祝詞ではない。上古の人の言の葉である。阿礼の舞う神楽はただの神楽ではない。上古からの言霊を表現しているのだ。そして安万侶は、阿礼が何百と詠んだ歌を書き取った記(ふみ)を開いた。  阿礼は寡黙であったのではない。上古からの言の葉を、ずっと安万侶に伝え続けていたのだ。
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