山村の怪談

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山村の怪談

 庭に出ませんか?という紗栄子の言葉に従い、私は庭に出た。  風は冷たいが陽射しは暖かい。秋らしい冷気と乾燥を含んだ大気が、庭に燃える紅葉の色をさらに濃く見せていた。夏でも冬でもない空の色は、ぼんやりとした柔らかな青だった。 「お天気で良かった。雨だったら、外には出られませんもの」  古いサンダルを履いた紗栄子は、花をつけていない躑躅(つつじ)の低い木を指で弄んでいた。  荒れた指だった。彼女が日頃から家事をしているのが分かる。痛々しいが、素朴で美しい手だと思った。 「そうですね。このお庭は、森谷さんが手入れをしているんですか?」 「えぇ。休みの日は私も一緒に雑草を抜いたり……。私が山形から東京に来てから、義父は一生懸命この庭に木や花を植えて手入れをしてくれました。私が育った場所は、自然豊かな場所でしたから。少しでも山形を思い出せるようにって」  自分の上司に、そんないじらしさがあるとは知らなかった。彼なりの心遣いだったのだろう。 「そこ、紅葉があるでしょう?私の住んでいた村にも、紅葉がたくさんあったんです。家の玄関先には、どの家も紅葉を植えていました」  彼女の視線の先に、私も目を向けた。細いながらも葉はしっかりと茂り、赤と橙色が混ざり合った色彩を放つ子供の掌のような葉の集合体は、油絵にも似た非現実的な酩酊感を見る者に与えた。 「それはさぞかし綺麗だったでしょうね」 「はい。朱山村(あけやまむら)という名前の通り、とても美しい場所でした。今頃の季節になると、山が燃えるように赤く染まるんです。私、絵画なんてとんと見たことはありませんが、きっと芸術家の描く山というのは、こんな風に美しいんだろうな、と思っていました」  うっとりと紅葉を見上げる紗栄子の眼差しは、少女のようにきらめいていた。  素朴さの残るこの女性に、私は無意識のうちに好感を抱いていた。すぐに妻にしたいと思ったわけではない。ただ、彼女ともっと話しがしたいと思った。  自然と私も饒舌になっていく。それは紗栄子の持つ柔らかな雰囲気がそうさせたのだった。 「朱山村とは、良い名前の村ですね」 「えぇ。義父も義母もとても良い名前の村だと言っています。私は森谷家の養女になってから、ここがあまりにも心地好くて帰っていませんが、あそこは自然豊かな場所です。でも、おかしいんですよ。そんな美しい場所なのに、怖い怪談なんてものがあるんです」 「怪談、ですか……座敷わらしとか?」 「座敷わらしなら大歓迎。だって、座敷わらしってとても可愛いのでしょう?私、見つけたらきっとお洋服やお着物を縫って着せ替えて愛でてしまいますわ」  それでは着せ替え人形ではないか。かの有名な座敷わらしを着せ替え人形にしたいとは、なかなか面白い発想だ。 「そんな可愛いものではなく、もっと怖いものですよ。だって怪談だもの」  小さく笑って、彼女は語り始めた。  朱山村は名前の通り山に囲まれた山村である。山は村人にとって恵みをもたらすが、同時に無闇に入れば出ることが困難な恐ろしい場所でもあった。越えるために整備された道以外は通らないことが、この集落に住む者たちにとっては当たり前であり、親から子へ教えていく大事な事柄だった。  しかし、子供は「駄目」と言われたことをやりたがるものだ。  子供たちは度々山に分け行って遊び場を増やしていた。  ある日、村の少年が友人たちと山で遊んでいると、小さな穴蔵を見つけた。自然が作り出したその穴蔵は山を流れる冷たい川のそばにあり、暗くじめっとした不気味な空気が漂っていた。  好奇心旺盛な少年たちは、これぞ冒険だと穴蔵に入ろうと覗き込んだ。  ところが、穴蔵の中から不思議な声が聞こえた。  うぅぅ……ぐうぅぅ……!  唸るような不気味な声に、少年たちは驚いた。その声はゆっくりと近付いて来る。  熊か、猪か……少年たちは身構えた。  しかし、穴蔵から姿を現したのは……。 「それは、何だったのですか……?」  紗栄子の語る怪談に、私は固唾を飲んだ。  彼女は微かに笑みすら浮かべ、落ち着きのある声で続けた。 「ボロボロの服らしき布をまとった、人間らしき何かだったのです」 「人間、らしき……?」  どうもはっきりしない言い方に、私は違和感を覚えた。それは動物ということだろうか。いや、広義の意味では人間もまた動物だが、彼女の物言いは熊や猪のような動物を想定しているようには思えなかった。 「少年たちは、それが何なのか分からなかったようなんです。ただ“怖い”という感情だけは本物で、穴蔵から出てきた不気味な存在について、要領を得ない説明を繰り返したのです」  髪を長く垂らし黒ずんだ肌の隙間から爛々と光る双眸。痩せこけた体躯は腰が曲がり、四足歩行の動物が立ち上がったかのような不自然さがあった。  それは男か女か、大人か子供かも分からない不気味な存在だったという。  人間だった。いや、獣だった。いいや、妖怪だ。山姥(やまんば)に違いない。  少年たちの言葉に、大人は混乱しただろうことが容易に想像できる。  彼らの話しで唯一共通する点は、不思議な鳴き声のような唸りを上げていることだった。 「随分と不思議な話しですね。それはいつ頃の話しなのですか?」 「私が子供の頃にはもうありました。いつからなのか……それは私にもよく分からないんです。すごく古い話しにも思えるし、最近の話しのようにも思えます」  怪談なんてものは、時代の流れと共に変化していくものだ。きっとこの話しにも原型となる山姥伝承などがあり、そこから尾ひれがついてこのような形になったのだろう。  私が考える怪談というものは、そういう認識だ。とは言っても、この話しは怪談と呼ぶには少々違和感がある。  立っているのが疲れたのか、紗栄子は縁側に腰を下ろし私を見上げた。 「不思議ですよね。でも、私が村を出て東京に行く頃には、また違う話しも子供たちの間では囁かれていたんですよ」  
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