横浜の空の下

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横浜の空の下

 港からの海風に舞い上げられた埃っぽい空気が、俺はどうも苦手だった。  この匂いは俺が復員し、久々に本土に降り立った時と同じ匂いがする。またどんよりとした空の色が、あの日の空模様と同じなのが癪だ。  忘れたくても、記憶は体に刻まれているもんだな……。  横浜の空を見上げ、この港に降りた日を思い出していた。  東南アジアで、俺は多くの仲間を失った。銃弾で、爆弾で、病で……自分より若い兵士が母を呼びながら死んでいくのを、俺は眺めていた。可哀想と思うより、その時の俺は「次は俺の番かもしれない」という恐怖が勝っていた。  五体満足で日本に戻り、米兵と中国人と日本人が混ざり合う横浜の地で、俺はどこに行けば良いのか分からず途方に暮れていたのだった。  母は東京を襲った空襲で死んだ。父はとうの昔に事故で死んだ。兄も弟もアジアのどこかで死んだ。俺と血の繋がりがある姪は、俺が日本に帰った時には姿を消していた。きっと空襲で死んだのだろう。  家庭を持っていない俺にとって、兄の子供は我が子も同然だった。赤ん坊の時から見ていた可愛い姪がもし焼け死んだのだとしたら、せめて俺が弔ってやりたいと思っていた。しかし、肝心の死体どころか行方すら分からない。  あれから、もう二年が経った。  姪を弔いたいと思いながら、俺はあの子がこの空の下でまだ生きているのではないかと夢想している。  探す手掛かりもないまま刑事として多忙の日々を送り、自分の行動力と覚悟のなさに嫌気が差している。 「横浜は初めてか?」  唐人街へと続く大通りで、芳賀さんが呟くように言った。  振り返るその顔は、歳の割りには若く見える。 「いいえ。復員した時に来ています」 「あぁ、お前は出兵していんだったな。どこに行ってた」 「フィリピンです」 「そうか、大変だったな」  労いにしては感情のない淡々とした声だった。それだけ言って、彼はまた俺に背を向けて歩き出す。  俺はこの人……芳賀隆二(はがりゅうじ)について、ほとんど知らない。彼は刑事課の中でも浮いた存在だった。俺よりずっと長く警察組織に身を置いているのだから、もっと頼られたり慕われていても良いはずなのに、芳賀さんに大してみんな腫れ物に触るかのような扱いをしていた。  経験の浅い俺が相棒役に宛がわれたのは、経験を積ませるというより、厄介者を押し付けたかったからだろう。  しかし、実際に芳賀さんと組んでみると、そこまで嫌な気はしなかった。高圧的なわけでもなく、面倒な仕事を押し付けられても淡々と仕事をする姿勢と、俺に対し熱心に指導する姿に、憧れすら抱いた。それが父性への憧れなのか、刑事としての憧れなのか、一人の男としての憧れなのかは分からない。  俺には、芳賀隆二という男が何故こんなにも浮いた存在にされているのか、理解できなかった。  俺が知っているのは、彼が出兵していないこと。離婚歴があり元妻は鼻血が出るほど口の悪い占い師であること。そして息子が今回の事件に絡んでいる腑抜けた男であることだけだった。  本来、担当する事件に身内が関わっていたら外されるのが当たり前なのだが、上はこの件からさっさと手を引きたがっている。だから厄介者である芳賀さんと俺に、警察組織の暗黙の了解を破ってでも宛がったのだろう。  嫌な事件だ……まさか芳賀さんの息子が関わっているなんて。  正直、俺は佐原薫という青年に幻滅していた。  芳賀さんとあの烈女の息子なのだから、もっと骨のある男だと思っていたが、三流カストリ誌の記者をやっているなんて。見てくれと口ばかり良い軽薄で女々しい奴だ。  酔って父親に反抗し、惚れた女恋しさに泣きじゃくるなど、日本男児にあるまじき醜態だ。俺がこの人の息子だったら、あんな無様な泣き面は晒さない。  東京から横浜に来たのも、その青年が俺たちに何かを隠しているせいで進展が見られないからだった。 「また遺族に会うんですか?」 「内容が内容なんだ。一度会って仕舞いにはできねえだろ」  事件から間もない頃、俺は一度芳賀さんと横浜に足を運んでいる。その際に会ったのは、被害者の楊紅英の祖父と祖母だった。祖母は卒倒し、祖父は口数が少なかった。当然だろう。  そしてその時に会えなかったのは、楊紅英の父親と婚約者だ。今日の俺たちの目当てはその二人だった。 「息子さんが何か知っているなら、とっとと口を割らせれば良いじゃあないですか。そこから探れるかもしれませんよ」 「あいつは意外と頑固だ。俺相手では簡単には話さない」 「締め上げりゃいいんですよ。親父にぐいぐい締め上げられたら、きっと吐きますって」 「安達。俺は市民を締め上げて吐かせるようなことはしねえ。そういうのはな、玉音放送流れた時に捨てて来た」  大通りを行き交う自動車の喧しさの中でも、芳賀さんの低い声ははっきりと俺の耳に届いていた。  濃紺の背広に覆われた均整の取れた後ろ姿には、どこか仄暗(ほのぐら)いものがあった。  唐人街はあまり広くはないが、似たような建物や看板が多く歩き慣れていないと迷い込んでしまう。俺一人では確実に迷子になっていただろう。  俺の前を歩く芳賀さんは、道をすっかり覚えている様子で人の間をすり抜けて行く。長い足で刻む歩調は速い。俺は追い付くのに必死だった。  ふと、彼はある戸建ての前で足を止めた。  豪奢な門構えの洋風建築は見覚えがある。楊紅英の実家だ。 「ここだったな」  独り言のように呟いて、芳賀さんは勝手に門を開いた。重そうな扉を軽く叩くと、細く扉が開き、俺たちは黒い警察手帳を見せて身分を明かした。  扉を開けたのは、使用人らしき年配の女性だった。 「こちら、どうぞ」  片言の日本語で促され、応接間へと案内される。  以前ここに来た時も思ったが、随分とこの家は金持ちのようだ。楊家は通訳として日本、イギリス、中国の商人を相手にして来た家系だ。  どこの国のものか分からない壺や絵画、置物が家中に飾られている。家具一つ取っても、俺の給料では何十年かかっても買えないような上質なものばかりだ。  そんな家の一人娘である楊紅英は、唐人街でも指折りのお嬢様だったのだろう。  女性に案内された応接間に入ると、高い天井の下に濃い緑色のソファーと艶やかな低い机が置かれていた。  ソファーには、二人の男が座っていた。
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