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祖父と婚約者のアリバイ
深い皺を刻んだ白髪の老人は、楊宏偉。楊紅英の祖父でここの当主だ。
もう一人は若い。恐らく三十代だろう。神経質そうな面長で、太くきりりとした眉が凛々しい。開襟シャツに灰色の上着という軽装だが、どこか品がある。
これが、楊紅英の婚約者だった李浩文だろう。
調べによると、この男も通訳を生業にしているそうだ。
「これはこれは。よう来なさった」
老人の口から、流暢な日本語が飛び出した。通訳をやっているのだから当たり前なのだが、俺は少し驚いていた。通訳というものは、こんなに異国の言葉を自在に操るものなのか。応接間の壁には様々な写真が飾られている。白人の男と写る楊宏偉の姿が多く、どこで撮影したものか分かるように字が書かれていた。
イギリスにて、インドにて、ネパールにて……と。
これだけやっていれば、さぞかし儲かるだろう。羨ましいもんだ。
隣に佇む芳賀さんは「お時間を頂きありがとうございます」と言いながらソファーに掛けた。
俺が隣に座るのと同時に、芳賀さんは口を開いた。
「今日も紅英さんのお父さんは不在ですか」
「文俊は仕事だ。しばらくはこちらには戻れんよ」
「娘さんが亡くなったのに、ですか」
「すぐに戻れる距離ではないから、仕方がない。連絡はしている。戻ったら文俊からも話を聞いてくれ」
被害者と最も近い身内である父親は、未だに俺たちの前に姿を現さない。目的の一つがこれで潰れた。
娘があんな凄惨な殺され方をしているというのに、父親でありながら何をしているのか。娘の死より仕事が大事なのか。
嫌味の一つでも言ってやりたくて身を乗り出したが、芳賀さんの長い手でそれを阻まれた。
「そうですか。では、後日必ず」
そして李浩文へと視線を投げた。芳賀さんの眼光は鋭い。凄味のある眼差しは、感情の色が見えないからこそ恐ろしいものがある。
李浩文もそれを感じ取ったのか、一瞬びくりと肩を震わせた。
「警視庁の芳賀です。こちらは安達。楊紅英さんの婚約者ですね?」
「いかにも。私が楊紅英の婚約者です」
低く硬い声だった。少々堅苦しさはあるものの、やはり流暢な日本語だ。発音に品があり、そこらの日本人よりずっと丁寧に話しているように聞こえる。
案内をしてくれた女性がお茶と灰皿を置いて部屋を出ると、楊宏偉は上着のポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「さてさて。我々に何を聞きたいのですかな?」
「楊紅英が佐原万智の家に行った夜、あなた方がどこで何をしていたかを聞きたい」
「それはつまり、紅英が殺された夜のことかな?」
「そうです」
「芳賀刑事。私たちにアリバイがあるか聞いているのですか?」
「浩文さん、これは形式的なものですが、捜査には必要なことです。あの晩、お二人はどこで何をしていたか……教えて頂こう」
豪華な応接間に相応しくない気まずい空気が流れた。
良い気はしないだろう。自分の身内が殺されたにも関わらず、アリバイの確認をされるなんてたまったもんじゃない。
それはつまり、犯行が可能だったかの判断基準にされるわけだから……。
現に李浩文は不快感を隠すことなく顔に浮かべていた。
「私は友人と食事に行っていました。イギリス人でね。冬まで日本にいる予定ですから」
「その友人という方はどこに滞在していますか?」
李浩文は胸ポケットに入れていた手帳に、さらさらとホテルと友人の名前を書いて俺に手渡した。
俺は短く「どうも」と呟き、それをしまうと楊宏偉へと視線を向けた。
彼の様子に、俺は違和感を覚えた。
この老人は不快感を見せるでもなく、悲哀に暮れるわけでもなく、ただ落ち着いた様子で椅子に座っているのだ。
刑事が二回も訪れ、アリバイについて聞きに来ているのだ。しかも殺されたのは自分の可愛い孫娘だ。
少し、冷静すぎやしないか……?
ちら、と芳賀さんを盗み見る。彼は何も言わず、老人を見据えていた。何も感じていないはずはない。
仙人のように泰然とした楊宏偉は、俺には不気味にすら思えた。
「芳賀さん、お煙草は?どうぞ気にせず吸ってください。私だけが吸ってたんじゃあ、どうも寂しくてねえ」
「それでは、遠慮なく」
慣れた手付きで煙草を取り出し火をつけると、ゆらりと細い煙が天井へと伸びていった。
ゆっくりと深く吸い込み、無言で吐き出す。
二人の間に流れる空気が張り詰めたものになっていった。
「楊宏偉さん、あなたには以前……初めて俺たちが来た時にも聞きましたが、お変わりありませんか?」
「あぁ、変わらん。私はあの夜。家に一人でいた」
「奥さんはいなかった」
「そう、いなかった。妻は知り合いと外出していたからねえ。私の仕事仲間に曾孫が生まれたもんだから、そのお祝いの手伝いに行ったよ」
その裏は既に取れている。確かに楊夫人はその夜、知り合いの曾孫誕生祝いの手伝いに行っていた。これは複数の人間が証言している。
俺は芳賀さんの言葉を待った。
「つまり、あなたのアリバイを証明してくれる者はいないわけだ」
「その通り。私にアリバイはないわけだ」
暫しの沈黙が流れた。芳賀さんが口を開かない限り、俺は口を挟まない……いや、挟むことができずにいた。睨むような彼の眼差しに感情の色はないが、何かを考えていることは確かだ。
深く煙草の煙を吸い込み、溜め息のように吐き出し、ようやく言葉を発した。
「よく分かりました。先日、楊文俊さんの勤務先に連絡しましたが、彼は紅英さんが死亡した日、用事があると言って早く事務所を出たようです」
「ほう、文俊が」
「あくまで俺が秘書から聞いた話しです。彼がどこに行ったか、どんな用事だったかは誰も知らない……何か聞いていませんかね」
「いやあ、私は何も知らないねえ」
李浩文も首を横に振った。まだ本人に会って確認したわけではないが、現段階では楊文俊のアリバイも怪しい。仕事の用事なら、秘書が把握しているはずだ。
彼らの言葉を忘れないよう、俺は手早く手帳に書き込み、目の前にいる二人の中国人を盗み見た。
どうも、不気味だ……。
彼らに会って話しを聞いて感じたのは、まとわりつくような不自然さだ。
大事な婚約者と孫娘があんな形で発見されたにも関わらず、二人は嘆き悲しんでいるように見えない。寧ろ、彼女の死を“受け入れすぎている”とすら思えた。
短くなった煙草を灰皿に捨てた芳賀さんは、次の質問に移った。
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