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神のなり方
「爺さん、何を言ってるんだ?俺たちはそんな話しがしたいんじゃあねえんだよ」
「教えてくれ。君たちの意見を。さあ」
荒くなった芳賀さんの言葉を無視し、老人はにこやかに促した。これは俺が口を挟めない話題だ。神仏に疎い俺が黙っていると、芳賀さんが煙草を灰皿に捨てながら呟いた。
「俺の意見が聞きたいなら、少々の無礼はお許し願いたい」
彼は少し苛立っているように見えた。その証拠に、言葉を崩している。楊宏偉はそんなこと気にしないと言わんばかりに、どうぞと言うように右手をひらりと前に差し出した。
「俺は神様仏様は信じない人間だ。だからそういうもんの知識はない。だから、人間が神になるなんてもんは、関羽や徳川家康、菅原道真くらいしか知らねえ。まあ、彼らはいずれも死んでから神格化されたもんだ。だから、あんたが言う“生きた人間が神になる”というのには当てはまらないだろう。
手っ取り早く神様になりてえってんなら、宗教でもやって教祖様になればいい。こんなご時世だ。新興宗教はごまんとある。これからもっと増えていくだろうな。神様気取りてえなら、それで十分だろう」
吐き捨てるような芳賀さんの意見に、老人は面白そうに笑った。俺には何がおかしいのか分からない。
「これはいかにも刑事さんらしい意見だ。良いね、面白い。刑事さんにとって、人間が真っ当な神になるというのは、死の先にあるものというわけか」
「まあ、そんなところだ。そもそもだ。生きながらにして人間が神になるなんてこたあ、新興宗教といえども困難なもんだ。そう単純なもんじゃねえだろう。神様は信仰ありきだ。多くの人間の信仰心を集めて成り立つもんだろう。信仰心を集めるなんてことは、一朝一夕じゃあ無理な話しで、時間をかけて熟成されるもんだ。」
「では、さらに問おうか」
「待ちな、爺さん。俺はあんたの死生観や宗教観が聞きたくて横浜まで来たわけじゃあねえんだ」
「君は神を作り上げた者もまた、神と呼べると思うかね?」
おい爺さんいい加減にしろ、と俺は身を乗り出したが、芳賀さんの手が俺の胸を押してそれを制した。まだ少しだけ、このイカれた議論に付き合ってやるつもりらしい。
老人が何本目かの煙草をふかした。煙る視界の向こうに、皺だらけの笑顔があったが、そこにある目は笑っているようには見えなかった。
「神を作った者も神だと?爺さん、ゼウスか天照大神の話しでもしてんのか?そんなもんは世界中の神話にあるだろうが」
「それは“神が神を産み出した”事例にすぎんよ。そうではない」
「つまり、たかが人間が神を作り上げたら、そいつは神様かってことか?そんなことがあるもんか。それは神様でもなんでもねえよ」
「なら、それは何と言う?」
「ただのイカれた狂人だ」
蔑むような、冷たい眼差しだった。低く深みのある声がやけに応接間に響く。そこで二人の宗教問答は終わった。老人は含みのある笑みを浮かべ、ただ美味そうに煙草を吸うばかりだ。李浩文は置物のように押し黙っている。彼の目には、俺もそんな風に映っていることだろう。
沈黙を破ったのは、やはり芳賀さんだった。
「有意義な宗教議論はここまでだ。話しを変えよう。佐原薫という男を知っているか?」
皮肉を込めた言葉の後に飛び出したのは、意外な人物の名前だった。
その瞬間、二人の目に憎悪の色が浮かんだのを……俺は見逃さなかった。
「ご存知なんですか?」
子供の似顔絵を背広の内ポケットにしまいながら問い掛ける。李浩文は鬱陶しげに手を振って、俺の言葉に返した。
「佐原薫……ふん、知っていますよ。あの若造は、紅英を狂わせた大悪党だ」
「李浩文さん、佐原薫と会ったことがあるんですか?」
「会ったことはない、会いたくもない。忌々しい!」
俺は不思議だった。会ったこともない人間を、何故ここまで嫌うことができるのか……。そもそも、何故彼らは佐原薫を知っているのか。
俺の疑問など露知らず、李浩文はそれまで黙っていた分、饒舌になっていた。
「紅英は確かに私と婚約しましたが、彼女は私に心も何もかもを許しませんでした。手に触れることすら、彼女は嫌悪したんです。そして私にこう言いました」
『私のすべては佐原薫のもの。私は私を、薫以外に捧げるつもりはないわ』
楊紅英が吐いた言葉に、俺は少し驚いていた。佐原が楊紅英に惚れていたのは明らかだが、彼女もまた深く佐原を愛していたのだろう。楊紅英ほどの女が、あんな腑抜けのどこを気に入ったのか俺には分からなかったが、李浩文もまた理解できないからこその苛立ちを覚えたに違いない。
芳賀さんと楽しげに宗教問答を繰り広げていた楊宏偉が、低い声で呟いた。
「佐原薫か……忌々しい名だ。彼が紅英をただの人間にしてしまった」
声色には深い恨みがこもっていた。これ以上の言葉はいらないと言うように、俺の相棒が席を立つ。
「捜査に戻ります。お時間をどうも」
彼は短い別れの挨拶を告げ、つられて立ち上がった俺の背を叩いて退室を促した。
楊家にこれ以上留まる理由はない。俺たちは二人に振り返ることなく、応接間を後にした。
唐人街の大通りを歩きながら、芳賀さんは身体中の疲れを吐き出すかのように煙草の煙を空に向かって吐き出していた。ほぼ同じ目線の相棒の顔を盗み見ると、疲れの色がある。
「芳賀さん。ありゃ何なんすかね」
「あ゛ぁ?何がだ」
「何もかもですよ。楊宏偉も李浩文も、俺は不気味でしょうがなかったです。何て言うか……」
「被害者の遺族とは思えねえってか……」
そう。そうなのだ。何も被害者遺族は泣き叫び悲嘆に暮れていなければならないと思っているわけではない。
ただ、彼らはあまりにも異様だ。悲しみの欠片すら感じ取れないのだ。
特に楊宏偉は、不気味なほどの落ち着きを持っている。
そして彼らは、楊紅英に対し身内以上の感情……崇拝に近いものを抱いている。いくら可愛い孫娘、愛する婚約者でも、これは不自然だ。
「ところで芳賀さん、なんでいきなり佐原薫について聞いたんですか?」
「深い意味なんざねえよ。薫は楊紅英と最後に会話した人物で、俺や女房にも話せない何かを隠している。軽い気持ちで揺さぶっただけだ」
通りを行き交う中国人の間をすり抜けていく。中国語ばかりが聞こえる大通りで、日本語を口にしているのは俺たちだけだった。
「でも正解でしたね。あの二人、何か知ってますよ」
「そりゃあそうだろうよ」
「どうします?搾りますか?」
「おいおい、安達よお。そう焦んな。こりゃあ少し慎重にいかなきゃいけねえぞ」
少し乱れた前髪を後ろに撫で付け、短くなった煙草を埃っぽい地面に投げ捨てた。
「俺は楊紅英は拷問か見せしめで殺されたと踏んでいた。そこから考え直す必要がある」
「お言葉ですがね、芳賀さん。あんな殺され方は拷問か見せしめしか浮かびませんよ。生きたまま腹を割くなんて、正気じゃないです」
「んなこたぁ、俺も分かってるよ。犯人は頭のトチ狂ったクソ野郎だ。俺が言いたいのは、そうじゃねえ。楊紅英の死には、拷問や見せしめ以上の違う意味があるのかもしれねえってことだ」
歳の割には若く整った顔に、鋭利な凄味が浮かんでいた。大通りを抜けた先にある丁字路には、俺が停めた車があった。さも当然と言わんばかりに、芳賀さんが助手席に乗り込み、俺は来た時と同じように運転席に乗り込む。
「なら、佐原をまず搾りますか?」
「あいつは案外頑固だ。押せば押すほど黙るだろう。ガキん時からそうだからな。特に俺がいたら話すもんも話さねえ。安達、しばらくはお前が薫についていろ」
「え?いや……俺よりやっぱ父親である芳賀さんの方が向いてると思いますが」
「父親じゃ何もできねえことってのもあるんだよ。俺と薫はそういうもんなんだ」
彼の横顔は、刑事ではなく父親になっていた。
どこか寂しげな瞳を見せる相棒の言葉に、俺は小さく頷いて無言でエンジンをかけたのだった。
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