ある浮浪児のエゴ

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ある浮浪児のエゴ

 足が痛い。どこがどう痛いかなんて、自分でもよく分からない。とにかく足の裏も、膝も、爪先も……痛くてたまらなかった。  黒ずんだ靴はすっかり擦りきれていた。いつから履いているかも分からない、ひどく古い、そして足の大きさに合っていない靴なんて履いていたら、痛くなるのも当然だ。  何より、私はここ何日も上野中を歩き回っていた。  久恵と栄太、幸治がいなくなって随分と時間が経った。  三人は、“赤い外套の男”に連れて行かれた……。  それは間違いなく事実だろう。しかし、その現実を安易に受け入れられるほど、私は大人ではないし冷静で強靭な心を持っているわけでもない。  どこかにいるはずだ。食べ物や着るものを探して、上野のどこかを歩いているに違いない。  その思いは、最早私の中に燻る願望に過ぎない。  賑わう闇市の人混みをすり抜け、目についた大人や浮浪児に、私は毎日飽きることなく声をかけていた。  昨日は一昨日と同じように探し回った。  そして今日も昨日と同じように探し回る。  変化するのは上野を訪れる人々の顔と、変わりやすい秋の空模様だけだ。  爽やかな秋晴れだというのに、上野の街は浮浪児や露店のから漂う食べ物の臭いが混ざり合い、空には似つかわしくない吐き気を催す空間と化していた。  闇市を抜けて道路を横切り、上野駅前へ辿り着くと、臭いは浮浪児たちの体から放たれる不潔なものばかりになる。この臭いを自分も放っていると思うと嫌気が差すが、どうすることもできない。  路傍に座り込んでチンチロリンをしている少年たちに声を掛けると、咥え煙草で私を見上げた。 「なんだ、春子かよ」 「おい、お前ら。“赤い外套の男”を見てないか?」 「なあんだ、またそれかよ」  少年たちが汚い顔を見合わせて笑う。いつまでも三人の行方を追っている私がよっぽどおかしいらしい。  うるせえよ、と低く言うと彼らは笑みを引っ込めた。その程度の(あざけ)りなら、最初(はな)から顔に出すんじゃねえ。 「ここ最近はなんも話しを聞かないな」 「お前が口にするまで、俺らも忘れてたくらいさ。ここいらじゃあ、駅前の喧しい宗教気違いの方が迷惑さ」  久恵たちが失踪してからというもの、上野駅前はおかしな連中がたむろするようになった。  神様がどうとか、女神様の理想郷だとか言ってビラを配っている連中だ。服装に統一感はないが、揃って小さな蓮花の刺繍を服につけている。  どんな宗教か知らないが、こいつらのせいで駅から来る人々が警戒心を露にし、私たちは色々と“やりづらい”もんだ。  そんな露骨に警戒されたんじゃ、財布一つ盗むのも一苦労だ。  ちら、と駅前に視線をやると一生懸命ビラを配る老若男女が見えた。 「蓮花の神様に祈れば幸せが訪れます」 「穏やかなる神の園は、とても豊かな美しい場所です」  何が幸せが訪れますだ。馬鹿にしてやがる。毎日のように耳に入る言葉に、私は苛立ちを覚えていた。ふざけた刺繍なんてつけやがって。 「春子、もう諦めろよ。“赤い外套の男”に連れて行かれて、戻ってきた子供はいないんだぜ?」 「だからなんだよ。諦める理由にならねえよ」 「俺たち浮浪児なんて、そのうち野垂れ死ぬんだ。探してどうすんだよ。上野で死ぬか、よそで死ぬかの違いさ。いいじゃあないか。お前の探してる子たちは、こんな地獄みてえなとこから、さっさとオサラバできたのさ。きっとな。それでいいだろ」  その言葉に、私の(はらわた)はカッと熱くなるのを感じた。気が付いたら、私は伸びきった少年の髪を掴み上げ、黒ずんだ顔を睨み付けていた。 「黙れよ、クソガキ。てめぇが勝手に久恵たちの運命を決めてんじゃあねえ。久恵たちはどっかで生きてる。その私の欠片ほどの願望を叶えるために、私は毎日こうして歩き回ってんだ。  こいつぁ、私のエゴだ。私が私の中で、あいつらは死んだと諦めんならいい。だが、外野のてめぇらが知りもしねぇで勝手にほざいてんじゃあねえよ。  てめぇらみてえなクソガキは、死ぬまでそこでサイコロ振って遊んでな。次また私にそんな口を聞いてみろ。ただじゃおかねえからな」  少年の咥えていた煙草を奪い取り、顔面に向けて煙を吐き出した。激しく噎せる少年を地面に転がし、私は煙草を咥えたままその場を後にした。  まったく。胸糞悪い。柄になく感情的になってしまった。  胸に渦巻く不快感を払うように、深く煙草を吸い込んだ。煙を吐き出すと、目の前の風景が霞みがかったように白くぼやける。  騒々しい上野に漂うざわめきが、一瞬だけ遠いものに感じた。それほ煙草の悪い成分がもたらす酩酊感のせいだろう。  こんなものを美味そうに吸っている大人の気が知れない。喉は痛いし、ひどく臭い。おまけにくらくらと頭が回る。ありがたいのは空腹感が薄れることだけだ。けど、やはり人間だから腹は減る。食べなければ体は動かない。  短くなった煙草を地面に叩き付け、私は闇市へと戻った。  何か食べるものが欲しいと思ったからだ。  闇市の入り口付近には、どこから仕入れたか分からない酒を出す飯屋が並んでいる。  もつ煮を煮込む大鍋からは湯気が立ち上ぼり、私の腹の虫を刺激する。  無意識のうちに、痛む足はそちらへと向いていた。粗末な屋根と机と椅子が並んだ露店の中には、昼間だというのに多くの人々が座って酒を飲んでいた。  残飯の一つや二つ、そこらにないだろうか……。  這いつくばって店の周りを探してると、店主の親爺が私に向かって怒鳴り散らして来た。 「てめえ、クソガキ! ここに来るんじゃねえ! お前みたいな臭い浮浪児がいたんじゃあ、客足が鈍るだろうが!」  顔を上げると、私を睨み付ける親爺が野菜クズを投げ付けて来た。ありがたい、ごちそうだ。汚れたそれを掻き集めていると、さらに怒声が飛んで来る。 「また財布をくすねに来たか、それとも飯を盗みに来たか! さっさと出ていけ、汚いガキめ!」  怒声と一緒に、古い椅子が顔に飛んで来た。避けるのが遅く、顔面に直撃する。その勢いで倒れると、鼻からぬるりとしたものが垂れた。鼻血だ。ちくしょう、よくもやりやがったな。  ふらふらと体を起こす私に、親爺はまだ何かを言っていた。  汚い浮浪児、臭いガキ、盗人……。  うるせえよ、クソみてえな大人が。  私はこうなりたくて、こうなったんじゃあない。私はただの子供だった。朝の匂いが好きで、母さんの隣で目覚めると一日がご機嫌な、ただの子供だったんだ。  なのに、大人たちが勝手に戦争を始めて、勝手に敗けて……私は大好きな母さんを失い、こんな惨めなクソガキに成り下がった。  私が何をしたってんだ。神様なんていやしない。惨めな現実しかここにはないんだ。  悔しくても、涙はもう出なかった。 「ちょっと、親爺さん! 今のはあんまりだと思いますよ」  若い男の声が響いた。顔を向けると、椅子から立ち上がったハンチング帽を被った若い男が、露店の奥から私と親爺をじっと見つめていた。 「その子、女の子じゃあないですか。犬猫じゃあないんですから、暴力はいけませんよ。いや、犬猫でもいけませんがね。僕は犬が好きですし。とにかく、怒鳴り散らして椅子まで投げるなんざ、良くありませんって」  見た目の割には饒舌な男だ。彼の向かいには派手な化粧をした女が座っている。恐らくパンパンガールだろう。  彼は私と親爺の方へと歩を進め、細く涼しげな目で私たちを見遣った。この界隈には不似合いな、なんとも坊っちゃんじみた若者だ。 「おいおい、兄さん。こいつはいつも飯をくすねたり、財布を狙う危ない浮浪児だ。(ほだ)されちゃあいけない」 「それが事実でも、女の子が乱暴されてるところを見せつけられるのは気分が悪いですよ」  口調こそヘラヘラとしたものだが、眼差しには力がある。親爺はふんと鼻を鳴らし、勝手にしろと吐き捨てた。  若者は私の前に膝を折り、上着のポケットから手拭いを一つ取り出した。 「これで鼻血拭いて。怪我とかはないかな?」 「ない。ありがとよ」 「どういたしまして。それじゃあ、僕はお仕事に戻るんで」  お人好しな男だ。彼は踵を返して、奥の席で煙草を吸っているパンパンガールらしき女のところへ戻っていった。  喧騒の中で、微かにあの若者の声が聞こえた。 「すみませんね、節子さん。いや、ですからね、なんでも良いんですよ。もうほんの欠片ほどの情報でもいいです。知りませんか? “赤い外套の男”について」  耳に入った単語に、私は足の痛みも顔面の痛みも忘れて、奥の席まで駆け出した。 「おい! “赤い外套の男”だって? 私にも教えてくれよ!」  上着を掴む私の顔を、若者は驚いたように見つめていた。
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