佐原薫との再会

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佐原薫との再会

 電車を降りるとすでに空は夜に染まっていた。夜風の冷たさと日の短さで、もう季節は秋なのだと実感する。子供の頃はあんなに一つの季節が長く感じたのに、大人になった今は四季の移ろいが一瞬に感じられる。  東京という場所はどうも四季に“匂い”がない。空を見て、風を浴びて、ようやく今がどんな季節なのかを知ることができる。  それだけ私が鈍感になってしまったということだろう。大人になるというのは悲しいことだ。  電車を降り新宿西口を目指して歩き出す人々の群れにまみれていると、きっとこの中には私と同じような情緒のない大人がたくさんいるのだろうと感じる。  みんな仕事や生活に疲れ、季節などそっちのけで今日という一日を精いっぱい生きているに違いない。  過去も未来も感じることのない、“今”しかない大人の群れだ。  西口を出て辺りを見渡すと、闇市へ向かう雑踏の中によく知っている若者の姿を見つけた。  薄茶色のズボンをサスペンダーで吊り、開襟シャツにくたくたの茶色い上着を羽織った青年だ。灰色のハンチング帽のせいで、少し少年っぽくも見える。建物に背中を預け、退屈そうに雑踏を眺めていた。  彼……佐原薫は私を見つけると、軽く手を上げてこちらへと駆け寄って来た。 「及川さあん、お久し振りですね」  切れ長の涼しげな目をしているが、冷俐(れいり)な印象はない。むしろ子犬のような人懐こさが、佐原にはあった。  にこにことしながら私を迎える彼の姿に、自然と笑みが(こぼ)れる。  電電公社で働く私が、カストリ雑誌記者をやっているこの若者と交流を持つようになったのは、実に奇妙な縁によるものだった。  春から夏にかけて私を悩ませ狂わせた、ある妖艶な結合双生児にまつわる事件が、私と彼を引き合わせた。  事の発端となった私のかつての戦友と佐原は、年の離れた同僚だったわけだが、その戦友が亡くなってから、私は彼に……厳密には彼と彼の母親に大変世話になったのだ。  夢魔に囚われた夏が終わり、新たな季節の到来と共に、私の人生にも変化が訪れた。そのことを佐原親子に少し相談をしようと、私はこの若者に連絡を取って、あまり好きではない新宿までやって来たわけだ。 「わざわざ迎えに来てくれたのか。ありがとう」 「いやいや、僕も仕事終わったばかりなもんでして。まあ、仕事と言っても大したことしてないんですがね。どうも最近はネタがなくて」  私たちは雑踏の流れに逆らうように歩き出した。  やや間の抜けた、軽薄そうな声で佐原は言った。いつ廃刊してもおかしくない雑誌の記者をやっている割りには、あまり危機感を持ち合わせていない。この呑気なところが彼の良さでもあるのだが、たまに心配になることもある。 「川越の一件をネタにするかと思ったけど、しないんだね」 「するわけないでしょう!さすがの僕も、あれをネタにできるほどの図太くありませんし、冷徹漢にもなれませんよ」  ()頓狂(とんきょう)な声を上げて、佐原は私を咎めるような目を向けた。  確かに、そうだろう。あの事件の悲しい顛末を思えば、安易に衆目に晒せない。あの梅雨の出来事は歴史に残さず、私たちの記憶と胸に刻まれればそれで良いのだ。 「では、どんなネタを追っているんだい?全くないわけじゃあないだろう?」 「そりゃあそうなんですがね。今は上野で起きてる戦災孤児の失踪事件について調べてますよ。“上野の神隠し”なんて言われてて。ただ、情報が少なくて難航してます」  彼は彼なりに仕事をしているようだ。  雑踏を過ぎ、暗い夜道を暫く行くと看板建築の戸建てが見えてきた。表札はないが、代わりに『佐原占術処』と書かれた看板が掛けられている。佐原の実家であり、彼の母親の仕事場でもある。明かりがついているので、“彼女”は中にいるのだろう。 「ただいま。及川さん連れて来たよ」  佐原がそう言いながら引き戸を開けると、室内の温かな空気とイカの香ばしい匂いが外に溢れて来た。  それに混じり漂うのは、煙草の煙臭さだ。 「なんだい、もう帰って来たかい。随分と早いじゃあないか。ちゃんと働いて来たんだろうね」  お邪魔しますと私が言う前に、室内に置かれたソファーからよく通るハスキーな声が聞こえて来た。  ソファーには、藍色のモダンな着物を纏った佐原の母親が、足を組んで煙草をふかしていた。  波打つ長い髪をかき上げ、鋭く細い目を私と息子に向けている。 「万智さん、お邪魔します」  私がやっと言うと、彼女……佐原万智(さはらまち)は赤い唇をニヤリと吊り上げ「おうおう、上がんな」と言った。  部屋に入り気付いたが、万智さんと対面する形で誰かが座っている。私と佐原から顔を見ることはできない。  低い机の上には三本ほど一升瓶が並び、四本目の瓶はもう中身が半分ほどだった。そして何故か、机の上には七輪が置かれている。スルメを炙っていたようだ。私が嗅いだ匂いはこれだったのか。  来客中に来てしまったことに戸惑っていると、その人物はゆっくりとこちらへと顔を向けた。  私はその顔を見て、思わずドキリとした。  何とも蠱惑的な、妖艶な美女がそこにいたのだ。 「晩上好(ワンシャンハオ)。薫くん、お久し振りね」  流暢な中国語が、低く響きのある声で紡がれた。  
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