『封神演義』を語る

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『封神演義』を語る

「なんですか?これは」  佐原がソファーに座って間の抜けた声を上げた。  机に並べられた三冊の『封神演義』には、それぞれに「上」「中」「下」という文字が書かれている。 「あら。薫くんは怪奇趣味の雑誌記者さんじゃあなかったかしら?このお話し、知らないの?」 「紅英さん、僕を見くびらないでくださいよ。僕はこれでも、いつ廃刊してもおかしくない三流カストリ雑誌の若手記者ですよ?当然勉強不足です。  僕は賢くありませんからね。古今東西の文学には、悲しくなるほど疎いんです。自慢じゃありませんが、三国志だって関羽と呂布くらいしか知りません。最近まで五丈原で死んだのが劉備だと思っていた男ですからね」  己の無知と学の浅さを、ここまで自信たっぷりに言う度胸は、若者らしいと言えば若者らしい。 「まあ、悪い子ね。それなら、たくさんお勉強して良い子になりなさい。できるかしら?」  そう言われて、佐原は「はあい、頑張りますう」と鼻の下を伸ばしていた。  思えば私も『封神演義』は名前は知っていても読んだことがない。“演義”という題名がついているということは、中国の小説だろうか。  万智さんは鼻の下をだらしなく伸ばす息子の後頭部を平手打ちし、煙草に火をつけた。 「やれやれ、アタシの(せがれ)だってのに、オツムにゃビー玉くらいしか入ってないのかい?もうちょいとオツムにアンコ詰めて腹から()り出したはずだけどね」 「私も『三国志演義』は知っていますが、『封神演義』は読んだことがありません。中国では有名なんですか?」  私の言葉に、紅英さんはゆったりと頷いた。新たに火をつけた細い煙草を優雅に吸い込む。 「有名よ。子供から大人まで、みんな知ってるわ。お芝居や絵本を通じて慣れ親しんでいる“古典文学”よ」 「古い作品なのですね。『西遊記』みたいなものでしょうか?」 「そうね。系統としては『三国志演義』や『水滸伝』より、『西遊記』が一番近いわ。残念ながら、これらの作品より出来としては見劣りするのだけど……」  苦笑を浮かべる美しい横顔から、机に出された三冊の本へと視線を向けた。 「及川さんよ、この物語のあらすじをざっくり言うとだね。(いん)王朝の紂王(ちゅうおう)と悪い皇后で狐の妖怪の妲己(だっき)を、仙界の道士である姜子牙(きょうしが)(しゅう)の王様連れて倒しに行く話しだ」  万智さんが短く説明してくれたが、あまりにも雑すぎて私にはよく分からなかった。  それを補足するかのように、紅英さんが煙草を吸いながら説明をしてくれた。  時は紀元前、殷王朝の紂王が妲己と暴虐の限りを尽くしていた。仙界の道士である姜子牙は、元始天尊の命を受け人間界に下り、周の文王の宰相となり殷を倒すため補佐をする。  やがて文王がこの世を去ると、息子の武王や仙界の仙人や道士と共に、紂王と妲己の討伐に向かう。  紂王は焼身自殺をし、狐の妖怪で傾国の悪女妲己は倒された。ついに殷王朝は滅び、ここに周王朝が始まる。  姜子牙は戦争に参加した人間や仙界の者たちを神に封じる、世は平和になった。  これもかなり簡易的なあらすじなのだろうが、それだけでも濃い物語だ。 「なるほど。殷周革命と仙人たちの戦いを絡めた壮大な物語なんですね。神仙の戦争の背景に、王朝交代劇が使われてるなんて、面白いじゃあないですか。中国の小説は規模がでっかいですね」  佐原の感想はもっともだ。『西遊記』や『三国志演義』もそうだが、重厚さと壮大さだけでなく、娯楽性にも富んでいるのが、あの国の古典文学の面白さでもある。  彼の感想に二人の女は満足げに頷いた。 「アタシは『水滸伝』よりこっちの方が好きさね。分かりやすいからね」 「占い師としては、文王が登場するのも良さの一つになるんでしょうか?易の人ですよね?」 「あぁ、そうさ。でもねえ、『封神演義』は確かに面白いんだけど、作りが雑なのさ。その一つに文王の易が挙げられる。  易占ってもんは、筮竹や算木(さんぎ)を使うけどね、この『封神演義』じゃあ何故か銭を使ってんのさ。これは無理ってもんだ。  こんな銭をジャラジャラやって占うのは、もっと後の時代だからね。文王様ともあろう方が、金転がしてムニャムニャ占ってたまっかい」 「この物語の成立は明代とされてるわ。作品そのものは神怪小説に部類されるけど、作者は硬派な歴史小説を意識して作った節があるの。万智の言うような雑さは少なくないから、歴史物と扱うには無理があるわね。  まあ、この時代の小説に時代考証を求めるのは無理があるし、これはこれで面白いのだから素晴らしい作品よ」  紅英さんは佐原の差し出した灰皿に煙草を捨て、湯呑みの酒を呷った。 「何より『封神演義』が中国の民間信仰に与えた影響は凄まじいわ。この物語に登場する神々は、物語によって民衆から絶大な人気を集め、その後の中国の民間信仰に変化をもたらしたのよ」 「紅英さん、宗教に変化があるのは当たり前じゃあないですか。国を治める人間が変われば、宗教も変わります。その辺は日本の民間信仰も同じだと思いますよ」 「それはそうね。でも薫くん、間違ってはいけないわ……『封神演義』は創作物。あくまでも小説なの。たかが小説によって“民衆”がそれまで長い歴史をかけて構築してきた神々を変えてしまい、さらに神を生み出したのよ」 「分かりやすいのは四天王だね。薫、アンコ詰まってないオツムでも四天王くらいは知ってるだろう?」 「知ってるよ、そのくらい。仏教の四天王。……ですよね?及川さん」  自信がないからと言って私に確認しないでほしい。私は控え目に頷いた。 「さて、ここで問題だ。四天王は“手に何を持っている”?さあ、よっく考えるんだ」  ニヤニヤと笑いながら万智さんは美味そうに煙草を吸い込んで、ふうっと吐き出した。  白く煙る視界の向こうで、佐原がうへえと顔を歪めている。  私は自分の記憶の中にある四天王像を探した。日本人にとって、仏像は身近な存在だ。しかしそういう存在というものは、あまり細かい場所まで記憶に留めていない。“なんとなく”でしか覚えていないものだ。 「槍、剣、あとは塔のようなものだったような……」 「正解だよ。槍だの剣だの蛇だの、あとは宝塔だね。やけに物騒なもんばっか持ってんのさ」  どうやら正解だったようだ。試験でもないのにほっとしている自分がいる。 「ではその四天王。中国のはどうかと言うと、手にしているのは傘、琵琶、剣、龍または蛇なのよ」 「えぇ?なんで傘なんて持ってるんですか?神様も雨を気にするんですか?」 「可愛い反応ね。そういうの、好きよ。でも違うわ。この中国の四天王が持っているものこそ『封神演義』に登場する魔家四将の武器なのよ。ただの創作物が仏教にまで及んだの」  これには私も驚いた。中国と日本、どちらも仏教に馴染みのある国なのに、ここまで違いがあるとは知らなかった。  興味深い話しに、私も佐原も「おぉ」と驚きの声を漏らした。 「いやはや、そいつは面白い!それほど影響力が及んでるってことは、魔家四将は人気があるんですか?」 「彼らは悪役なのよ、薫くん。一番人気の登場人物は……やっぱり哪吒(なた)かしら」
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