哪吒三太子

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哪吒三太子

 秋の夜風が細く開かれた窓から流れ込み、室内に漂う煙草のスルメの臭気を中和する。  新鮮な空気が私の肺を清めてくれるような気がして、静かに吸い込んだ。 「哪吒(なた)……?」  吸い込んだ息を、言葉と共に吐き出す。聞き覚えのない東洋の神の名は、どこか美しく独特な響きがあった。私は中国の神々に関して無知だ。そんな無知な私でも、哪吒という名前はおよそ中国らしからぬものに感じられた。 「あれ?それって、『西遊記』で孫悟空とドンパチやってた奴じゃあないですか?『封神演義』にも出ていたんですね」  佐原の言葉に、万智さんが頷いた。 「あぁ、出ていたねえ。親父の托塔李天王(たくとうりてんのう)と出てたっけ。李天王も『封神演義』に出ているよ」 「へえ! 母さん、詳しいね」 「アタシを誰だと思ってんだい、このクソッタレが。お前も記者の端くれなら、ちったあ本の一つや二つでも読んだらどうなんだい?そんなんじゃ、いつかクビになって、おまんま食えなくなるよ」 「僕は僕なりに読んでるよ。ほら、うちの会社で出した雑誌とか」 「ただのカストリ雑誌じゃないか! そりゃあ読書かい? 読書なのかい? 読書と呼べるもんかい? 『平家物語』くらい読んでみたらどうなんだい。これからの時代、必要なのは理性と教養だよ」 「嫌だよ、『平家物語』はあの出だしからもう涙が出てくるし……諸行無常の響きありって、聞いてると悲しくなってくるじゃないか。平家、こんな風になっちまって……ってさ」 「あ゛ぁん? お前はどんだけ感情移入してんだい!」  ぎゃいぎゃいと目の前で繰り広げられる親子喧嘩らしきものに、私は呆気に取られていた。いつ見てもこの親子の言い争いは漫才のような軽快さだ。  隣に座る紅英さんを盗み見ると、二人の様子を微笑みを浮かべて見つめていた。見慣れた光景なのだろう。 「この二人の親子喧嘩は、いつ見ても漫才のようですね……」 「可愛らしい罵り合いだわ。哪吒と李天王の親子喧嘩と比べたら、静かなものよ」 「李天王というのは、その……哪吒の親なんですか?どうも哪吒という名前は中国の神様っぽくありませんね」 「それはそうよ、及川さん。哪吒……哪吒三太子はその原型がインドにあるもの」  紅英さんは然り気無く足を組み直し、湯呑みに酒を注いだ。かなり飲んでいるはずなのに、顔色はおろか口調も変化がない。それは万智さんも同じだ。  この女二人は、ザルを通り越して枠なのかもしれない。 「哪吒の父親、托塔李天王の原型はインドのクーベラ神というの。クーベラ神には息子が三人いて、その三番目の息子がナラクーバラ。これが哪吒の原型よ」 「えぇ?インドですか?ずいぶん遠くの神様だったんですねえ」 「そうね、ずいぶんと遠くから来たものだわ。この頃の哪吒……ナラクーバラはまだ下級の神だったわ。知名度も今よりずっと低い神だったでしょうね。それが、クーベラ神と共に中国に伝来し、仏教と混ざり合ったことで、クーベラ神は毘沙門天になった。そしてナラクーバラも哪吒三太子(なたさんたいし)となったのよ」  なるほど、インドの神が仏教と一緒になりその名前になったのだとしたら、中国らしからぬ名前も頷ける。 「しかし哪吒とは関係ありませんが、四天王は魔家四将なのではないのですか?毘沙門天が二人いることになってしまう」 「及川さん、托塔李天王が毘沙門天だったのは、ずうっとずうっと昔の話さ。毘沙門天は唐代の衛国公李靖(えいこくこうりせい)と結び付き、毘沙門天とは違う神格を持つ。だから同じじゃあないよ」  どうも私は頭がごっちゃになってしまっていた。つまりは、『封神演義』の托塔李天王はイコール毘沙門天ではないということになるらしい。  やっと理解出来たが、佐原は頭の中がこんがらがっているようで、難しそうな表情を浮かべていた。  彼の様子など気にせず、二人の女は煙草と酒を楽しみながら言葉を続ける。 「哪吒(なた)を語る上で、父親の李天王……李靖の話しは避けて通れないわ。『封神演義』でも『西遊記』でも、この親子喧嘩が前半の盛り上がりだし、哪吒という名脇役の説話の大事な部分だもの」 「そもそもだ。哪吒(なた)の説話は『封神演義』と『西遊記』で違いがある。アタシはどっちも好きだけどね。母の腹に三年もいて、肉球で生まれて来たりなんかしてさ。その後、竜王を殺したり仙女の弟子を殺して親父や母親に迷惑かける」 「うへえ……そりゃとんでもないクソガキじゃあないか。竜王とあっちゃ、それはそれは偉いもんでしょう。ごめんなさいじゃ、とても済まされないよ」  露骨に嫌そうな顔をする息子を横目に、万智さんは満足げに口端を吊り上げ笑った。 「そりゃあそうさ。ただの謝罪じゃ許されない。だから『封神演義』の哪吒は、師の助言に従って自害したのさ」 「自害?子供なのに、哪吒は自害したのですか?」 「刀で肉を裂き、肉体を父母に返した。つまりは自害だ。及川さん、これで勘違いしちゃあいけないよ。哪吒(なた)の自害はそんな悲壮なもんじゃあないんだ。哪吒(なた)は“肉体を父母に返しただけ”であって、魂はそのままだ」  私にはこれのどこが悲壮なものではないのか、さっぱり分からなかった。幼い子供が自分のしたことの責任を取るため自害するなど、悲劇以外の何物でもない。  だが相手は神様だ。神の説話を、人間の……それも現代日本の庶民の凡庸な倫理観を物差しにして語るなど、滑稽なのかもしれない。 「哪吒(なた)は死んだままじゃあないわ。ちゃんと復活するのよ。蓮華を肉体にした、蓮華の化身としてね」  肉体を親に返し、蓮華の化身として復活する少年神。  古今東西の神話というものは、人間の常識とはどこか外れたものがある。私は哪吒(なた)の説話にも、そうした不思議なものを感じた。 「勿論、この説話は『封神演義』と『西遊記』では少しばかり違いがあるわ。『西遊記』の場合、話の中に登場するのは釈迦如来など仏教神ばかり。『封神演義』には釈迦如来は登場せず、哪吒(なた)の師匠の仙人がその役目を担っているわ。  元々は『西遊記』の方が本家で、『封神演義』は他の史料から話を引っ張って作り替えたところがあるの。それでも、蓮華化身にして天下無双の哪吒(なた)は健在よ」 「なるほど。そりゃあ面白い神様ですね。なかなか濃い小説だ」  佐原はニコニコと笑いながら、机に置かれた小説をパラパラと捲って眺めていた。  その瞬間、紅英さんがあっと声を上げて壁に掛けられた時計へと視線を向けた。 「あら、いけないわ。私、そろそろ行かなくちゃ」 「なんだい。泊まって行くもんだとアタシは思ってたけどねえ。今から帰るつもりかい?」 「ごめんなさい、万智。私行かなきゃいけないところがあるのよ」  時計を見れば、もう七時を過ぎていた。  彼女は上着を羽織り、机の下に置いた鞄を手に取ると玄関まで歩を進めた。 「紅英、待ちな。もう夜も更けてんだ。女の一人歩きは物騒だよ。薫、送っていってやんな」  突然話を振られた佐原は、驚いたように目を丸くしていた。しかし、断る理由もないと判断したのだろう。本を置いて立ち上がった。 「頼もしいわ、宜しくね。薫くん。駅まで連れて行ってくれればいいから」 「車を出しますよ?いいんですか?」 「いいの、歩きたいわ」  今の佐原の気持ちを考えると、駅までの短い時間もとてつもない長い時間に感じることだろう。失恋した相手と二人きりなのだ、そんな感覚に陥るのも無理はない。  今日初めて会った中国人美女は、私と万智さんに別れを告げて外へと出ていった。  彼女に次に会うのはいつのことだろう。  しかし、私は思わぬ形で彼女の名を見ることとなる。  紅英さんと初めて会った日から数日後、彼女は代々木で遺体となって発見され、新聞で大々的に報道されたのだった。
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