愛しい人

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愛しい人

 秋の夜は少し肌寒く、上着を持って来なかったことを後悔した。だからと言って、寒い寒いと弱音を吐くことも憚られる。  僕の隣を歩くこの女性に、そんな子供っぽいところを見られるのは嫌だった。  夜の闇で少しは表情が隠れるだろうか。いや、これほど近い距離にいたなら、僕のやせ我慢している顔など彼女にはお見通しだろう。  母は何故、僕を送り役になどしたのか。夜道を一人で歩かせるのは危険だから。それはよく分かる。もっともな理由だ。その役目を仮にも客人である及川さんにやらせるわけにもいかない。  少し前の僕なら、この役目を喜んで引き受けた。秋の夜風が冷たかろうが、豪雨だろうが、僕は尻尾を振っていたはずだ。  もっともらしい理由を付けて、この女性の隣に並べるのだから。こんなに嬉しいことはない。  しかし、今の僕にとってこの状況は残酷以外の何物でもない。  星明かりと月明かり、そしてバラック小屋から漏れる頼りない明かりばかりの新宿で、僕は初恋の人の隣を気まずい気持ちを抱いて歩いていた。  何を話せばいいか分からない。ただずっしりとした重いものが心の中に生み出され、それの置き場をどこに持っていけば良いのか、普段使わない脳みそを大回転させて考えていた。 「万智も薫くんも、元気そうで良かったわ」  隣を歩く紅英さんの声に、どきりと心臓が跳ねた。表情が強張らないよう、自分が今できる最大の明るさを顔に浮かべてみる。 「母はいっつもあんな調子ですからね。まあ、僕もそんなもんですが。元気なことだけが取り柄ですよ。また顔見せに来てください。母が喜びます」 「そうね。そう出来ればいいんだけど……難しいわね」  いつものように調子に乗って、僕は自ら地雷原へと足を踏み入れてしまった。しかもそれは、彼女の地雷原ではない。僕の地雷原だ。  ここで話題を無理やり変えるのは、かえって不自然だろう。僕は平常心を装った。 「そっかあ。紅英さん、人妻になっちゃうんですもんね。結婚したらなかなか遠出するのも難しいかあ……あ!そうだ。それなら、母が横浜まで行けば解決ですよ。こっちより横浜の方がまだ景気も良さそうだし、気晴らしに行くのも母なら喜びそうだ」 「あら、薫くんは来てくれないの?」  僕を見上げる美しい顔を、真っ直ぐに見つめられるほど、僕の心に余裕はない。  しどろもどろになりながら、彼女から視線を外した。 「いや、僕は……仕事もありますし」 「そうね。薫くんは、もう大人だものね」  僕よりずっと大人の女が、呟くような小さな声で言った。  ふと、彼女の足が止まり、僕の歩みも止まった。 「ごめんね、薫くん。私、結婚するの」 「えぇ、知ってます」  自分でも驚くほど、冷たい返し方だった。頭の中に住むもう一人の僕が、もっと大人になれと囁いていたが、今の僕には“大人の男”としての返し方が分からなかった。  幼い日に出会い、いつの間にか恋に落ちていた年上の女性が結婚する。  結婚という人生でもっとも喜ばしいものを目前に控えているのだ。お祝いの一つでも口に出来なくてどうする。  そうは思っても、その相手が自分ではないという現実に、僕は打ちのめされていた。 「私、酷い女ね。あなたの気持ち、ちゃんと知ってるのよ。あなたが今、とても悲しんでいることも」  やはり、お見通しなのだ。彼女には。  僕は彼女に隠し事などできない。  今の僕は、どんな顔をしているだろう。鏡があったら割りたいくらいだ。  紅英さんは、静かに僕に体を向け、黒い瞳で見つめた。浮かんだ微笑みは、ぞっとするほど美しかった。 「子犬みたいな顔をしているわ」 「僕、そんな子供っぽいですか?」 「いいえ、あなたは大人よ。もうすっかり、大人の男だわ。それは私がよく知っている」  彼女が、僕の手を優しく握った。自然と僕もそれに返す。  彼女の指先は恐ろしいほど冷たかった。暖めたくて、この滑らかな手を感じていたくて、指を絡ませる。  高鳴る胸に、少年の頃のような明るさは消え失せていた。もうこの指に触れることは許されないのだ。この先、ずっと。 「少し、寂しくなるわ」 「新婚さんになるんですよ?幸せはこれから先、たくさん待ってます」 「でも、そこにあなたはいないわ」  そう、いないのだ。もう僕の人生も彼女の人生も交わることはない。  隣にあった道が交わることなく、急に真逆を向いたわけでもない。ただ真っ直ぐに隣り合っていた道が、より一層遠くなり、しかも“決して交わらない”という事実を地図で示されたに過ぎないのだ。  ただそれだけのことなのに、僕にとっては酷く残酷な話しだった。  僕の手を包む彼女の手の優しい圧が、僕の弱い心を抉っていく。 「もし、私が日本人で少し年下で……あなたが万智の息子じゃなければ、私たちは夫婦になれたかもしれないわね」 「やめてください……そんなこと言うの。もしもの話しなんて……」  絡まる指に、自然と力がこもる。  もしも彼女が日本人なら、今より年下なら……もしも僕が、佐原万智の息子じゃなかったら。  あまりにも現実とはかけ離れた話しだった。  “もしも”なんてものは、所詮は夢物語なのだ。叶わない現実から目を背けたくて、自分の理想を夢見る体の良い口実に過ぎないのだ。  それは紅英さんもよく分かっているだろう。分かった上で口にしている……そしてそれを意味するところを、僕自身もなんとなく察している。  だからこそ、この細く美しい指を払うことが出来ないのだった。  どんなに不機嫌な言葉を吐いたところで、少年ではなくなった僕の浅ましい恋慕は、まだ未練たらしく彼女を求めている。 「そうね、非生産的ね。“もしも”なんて架空の話しをしたところで、私はあなたのものにはなれないし、あなたも私のものにはなれない。  でもね、私は幸せだったのよ。あなたと同じ時代に生きることが出来たというだけでも、私にとってそれは幸福なことだったわ」 「これからもっと幸せになってくださいよ。僕は紅英さんが幸せになって、笑い皺だらけのおばあちゃんになるまで見届けますからね」 「あなたのそばじゃなきゃ、私は笑い皺だらけになんてなれないわ」  こつん、と僕の胸に彼女の額が押し付けられた。こんなことをされては、爆発しそうなほど脈打っている心臓の音が聞かれてしまう。 「ありがとう、薫。私を人間にしてくれて」  何を言っているんですか……と聞こうとした瞬間、するりと、手が去っていった。僕を見上げる彼女の笑顔は、今にも泣き出しそうなほど瞳が潤んでいた。  この体を抱き締めて連れ去れたら……そんな妄想に駆られるが、理性と女々しさが邪魔をする。 「生まれ変わったら、夫婦になりましょう」  それこそ、本当の夢物語だ。  生まれ変わるなんてことは、現実ではありえない。僕は死んだことなどないから分からないが、人間が生まれ変わるなんてものは、生きている者が考えた根拠のない話しだ。  それでも、大真面目に彼女は言う。それを信じたくなってしまう。照れ隠しをするように、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ。 「生まれ変わったらって……そんなことありますか?」 「あるわよ、絶対に」  僕に背を向けて、彼女は数歩先に進んだ。 「私は、神様だったのだから」  くるりと振り返った彼女の顔は、眩しいほどの笑顔が浮かんでいた。 「死んでも、花の化身になって生まれ変わって来るわ。だから待っててね」 「すごいな、紅英さん。哪吒(なた)みたいだ」 「哪吒じゃあないけど、神様だったから、きっと大丈夫よ」  その言葉の意味を、僕は深く考えなかった。ただその笑顔に圧倒された。  現実的ではない言葉でも、口にすれば叶うかもしれない。よくは知らないが、日本には言霊なんてものもある。 「じゃあ、期待してます」 「えぇ、そうして頂戴」  僕よりずっと大人の女は、少女のような笑顔を浮かべていた。歩き出す彼女の後を追おうとすると、「ここまでで良いわ」と制される。 「一人で大丈夫よ。送ってくれてありがとう」 「駄目です。暗いとこ、一人で歩いてたら危険ですから」 「いいの、ここまでで。これ以上あなたといたら、名残惜しくなるから。さようなら。万智に宜しくね」  振り返らずそう言って、彼女は颯爽と夜の闇に溶けるように去っていった。  名残惜しくなるのは、僕も同じだ。だからきっとこれで良かったんだ。  自分に言い聞かせ、女々しさを拭い去ろうとするが、心のどこかで未練がまだ燻っていた。  見上げると、秋の星が僕を見下ろしていた。星は途方もない長い年月、そこにいるのだという。それならこの夜空に瞬く星々は、一体どれだけの人間が生まれ変わるのを見届けて来たのだろう。  『私は神様だったのだから……』  頭の中に、彼女の声が再生される。あぁ、確かに神様だ。彼女は僕の女神様だ。  だから凡庸な僕のような男が、伴侶として隣に並ぶことが出来ないのは、仕方のないことなのだ。  ポケットに突っ込んでいた手を出して、外気に晒す。温まったばかりの手は外気に触れて、次第に体温が奪われていった。  彼女が触れた己の手に、僕はそっと口付けをした。  それは来世への期待を込めた口付けだった。
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