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朝刊の一面
記者の端くれだというのに、僕は普段から新聞をじっくり読む習慣がない。号外が出れば話しは別だが、朝会社に行き、机に置かれた朝刊をざっと眺めておしまいだ。
そんなことだからいつまで経っても三流記者なんだ、と言われても言い訳ができない。
何故読まないかの理由は単純で、僕の興味を引く話題がそこにないからだ。政治に興味を持たない僕にとって、万民向けに発行される新聞の記事は退屈以外の何物でもない。
新橋駅を降りて会社に向かうまでの間、新聞売りに群がる人々を横目に「何か面白いネタはないものか」と思案していた。
「美女の惨殺遺体発見! 猟奇殺人だよ!」
威勢の良い新聞売りの声が雑踏の中に聞こえた。
猟奇殺人事件!カストリ雑誌にはお誂え向きのネタじゃあないか。
踵を返し、人混みを掻き分けて新聞売りに小銭を渡して朝刊を手に入れる。
普段読むことのない新聞に、僕はわくわくとした高揚感を覚えていた。大々的に報じる猟奇殺人事件とは、どんなものだろうと、カストリ記者の血が騒いだのだ。
会社まで待てなかった僕は、その場で新聞を開いた。
そこに書かれていた見出しの文字に、一瞬自分の目を疑った。
『美人中国人占い師、惨殺死体で発見』
『切り裂き魔、代々木に現れる』
粗の多い写真には、警察が布で包んだ遺体を運ぶ様子が写っていた。
小さく覗く細い指に、僕は見覚えがあった。あの夜、僕の指と絡まった美しい手だ。
違う、彼女であるはずがない……。
心臓がどくり、どくり……と強く脈打った。記事に視線を落とすと、あってはならない名前が書かれていた。
被害者の名前は楊紅英、と。
新聞売りの威勢の良い声も、雑踏のざわめきも、僕の耳には入らなかった。
月並みな言葉だが、信じられなかった。現実だと受け入れることが困難な事実に、僕の体はガタガタと震えていた。
知り合い……それも数日前に会ったばかりの初恋の女が、死体となって新聞の一面を飾るだなんて。
すぐに受け入れろという方が無理がある。
肩に誰かがぶつかって、体がよろけた。こんな朝の人混みの中にぼうっと立っていたのだから、人とぶつかるのも当然だ。手からこぼれた新聞が地面に落ち、人々の靴底に蹂躙される。
僕はそれを、ただ呆然と眺めていた。
「おはようございます」
新橋の片隅にある古いビルの二階に、僕の職場がある。「怪幻社」という、いかにもカストリ雑誌を出してますと言わんばかりの弱小出版社だ。
従業員も数名。編集長の緒方さん、その奥さんの梅子さんが事務員、カメラマンや記者も二人ほどいるが、毎朝顔を出すのは僕くらいだ。
狭い室内には緒方夫妻の姿しかない。
「佐原、遅刻だぞ」
緒方さんが記事の下書きに赤ペンを入れながら、不機嫌そうな声を上げた。
もうすぐ四十路だというのに、すでに頭髪の乏しい編集長は、喜劇俳優のようなチョビ髭を鼻の下に作っている。いつでも不機嫌なのだが、その髭のせいであまり怖くない。
いつもなら軽口を叩いて、形ばかりの謝罪をするが、今日はそんな気分になれない。僕の手には、踏み荒らされた朝刊が握られていた。
買わなきゃ良かった……と後悔しているが、僕の席には同じ朝刊が置かれていた。どっちにしろ、この報道を目にすることになっただろうと、やはり陰鬱な気分になった。
「薫ちゃん、具合でも悪いの?」
梅子さんが算盤を弾く手を止めて僕を見上げた。白いブラウスに灰色のスカートという地味な服装だが、その服装のせいで首から頬にかけて残る火傷の痕が生々しく見える。
東京を襲った空襲で負ったものらしく、いつ見ても痛々しい。
「いや、平気です。なんともありませんよ。昨日ちょっと飲み過ぎちゃいまして」
嘘で取り繕い、無理やり笑顔を作る。口の上手さが僕の取り柄だったはずなのに、それがまったく機能していない。ハンチング帽を脱いで、短い髪をかき上げて、わざとらしく「また吐いちゃいましたよう」なんて言ってみる。
吐き気があるのは嘘ではない。あんな記事を朝から見てしまって、腹の中にある固形物をぶちまけたい気持ちに駆られている。
僕の言葉に、緒方さんはふんと鼻を鳴らして赤ペンを揺らした。
「ったく、二日酔いになるほど飲んだとは良いご身分だな。お前は一番仕事してないんだぞ、下っ端が。酒飲んで遅刻するなら、せめてそれなりの仕事をしてもらおうか」
「お言葉ですがね、緒方さん。僕だって情報を足で稼いで記事を書いてますよ。ほら、あれですよ。上野の神隠し!取材はしてるでしょ?」
「あれが取材か?ただパンパンガールから話しを聞いただけだろ。こんな白湯のような、うっすい内容で記事にできるか。もっとマシなもん持ってこんか」
そんなこと言われても、どうしろと言うのか。大した話しなどどんなに聞いて回っても出てこない。“赤い外套の男”が目撃されるということくらいしか、情報はないのだ。
しかしそんなことを口に出そうものなら、特大の雷を落とされて終わる。僕は素直に「すみません」と謝った。
「お前にはもう一つ仕事をしてもらうぞ。今朝の新聞記者読んだか?美人占い師の猟奇殺人。あれを追って来い」
実に嫌な仕事だ。そんなこと、僕にできるはずがない。
「い、嫌ですよ……上野の神隠しだけで手一杯ですし」
「なあにが手一杯だ。あの事件、まさにカストリ雑誌にお誂え向きの内容だ。成績の悪いお前でもそれなりの記事が作れるだろう。やれ。足で稼いで来い」
僕は頷くしかできなかった。
これは知り合いが殺された事件なんです、とでも言おうものなら緒方さんは余計僕にやらせたがる。被害者に近ければ近いほど、他にはない情報を持っているからだ。
確かに僕は紅英さんについて、他の誰より……もしかしたら母より色々なことを知っている。
彼女が僕を見ていたように、僕も彼女を見ていたのだから。
「いいか?ちゃあんと朝刊を読んでおけ」
緒方さんの言葉に頷きはしたが、読む気にはなれなかった。まだ僕は冷静になれていない。
とりあえず頭を冷やして来ようと、僕は机に置かれた朝刊を持って「取材行ってきます」とだけ言い部屋を出ていった。
どこに行こうなんて決めていない。ビルから出て、適当にブラついて、気持ちが落ち着いた頃に朝刊に目を通そう。
頭の中で考えながら黒い焦げ跡の残る階段を駆け降り、外に出た。
秋晴れの空が眩しく、行き交う人の群れに目眩がした。
さて、どちらに向かおうか……と首を回すと、ビルの壁に背を預け煙草を吸う二人の男と目が合った。
そのうち一人は、僕のよく知る男だった。
歳は四十後半。紺色の背広にすらりと高い背。後ろに撫で付けて固めた髪。やや日焼けした堀の深い顔に見える鋭い双眸は、ただ黙っているだけでも威圧感を与える凄味と眼光があった。
一目見ただけでも、一般市民でないことが分かる。
もう一人は見覚えのない三十路くらいの体格の良い男だった。灰色の背広に身を包んでいても、胸板の厚さが分かる。
「よう。久しぶりだな」
紺色の背広の男が僕を眺めながら低く言った。
この時の僕の顔は、よっぽど不機嫌だったに違いない。陰鬱な気分は苛立ちへと変化した。
かけられた言葉を無視し、足早に彼らの前を通り過ぎると、また背中に声を投げられた。
「おぅい、おいおいおい。無視すんなよ。挨拶もできねえのか?」
「忙しいので」
「そうか。忙しいか。良いご身分だな」
男たちは煙草を地面に捨てて、僕の方へと近付いて来た。灰色の背広の男が、僕の横へと張り付く。嫌な気分だ。
「朝刊は読んだか?」
「読みたくない」
「お前も記者の端くれだろうが。新聞くらい読め」
「読みたい気分じゃない」
「だろうな。楊紅英の死体が上がったなんて報道、見たくねえだろうよ」
低い男の声は淡々としていた。それがかえって僕の心を抉っていく。灰色の背広の男が僕の腕を掴み、反射的に「やめろよ!」と声を上げて振り払った。
「急いでるんだ。仕事があるから」
短くそう言って歩き出そうとした瞬間、紺色の背広の男が壁に足をつけて僕の進路を塞いだ。この長い足が忌々しくて、彼の顔を睨み付けた。
「仕事熱心なのは良いがな、こちらの仕事にもちったあ協力してくれよ。何も取って食いやしねえよ」
男はそう言って、僕の肩に腕を回した。
「たまには“お父さん”と話しでもしようぜ。なあ、薫」
父はそう言って、黒い警察手帳をちらつかせた。
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