父との語らい

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父との語らい

 両親が離婚したのは、僕がまだ十歳くらいの頃だ。理由は知らない。聞かされたことも、自分から聞いたこともない。  ただ昔から父は家にいることが少なかった。刑事をやっているとは聞いていたが、どんな仕事をしているのかは話してもらったことがない。子供の頃は父が家にいる時はよく構ってもらったものだが、気が付いたら希薄だった関係はさらに希薄なものになっていた。  たまに会っても、僕が一方的に友人のことや近況について語るだけで、父はそれを微かな笑みを浮かべて聞いてくれているだけだった。  父親らしいことをしてもらった記憶は、あまりない。母と離婚してからは、この男を一層父親と思えなくなっていた。  嫌っているわけではない。ただ、親子と思っていないだけだ。親戚の少し怖いおじさんくらいの認識で、この男……芳賀隆二(はがりゅうじ)という刑事に対して、父親としての特別な情は持ち合わせていなかった。 「吸うか?」  新橋駅の裏に並ぶ飲み屋の片隅で、僕は父と向かい合って座っていた。差し出された煙草を一本もらい、慣れない手付きで火をつける。  飲み屋と言ってもバラック小屋の粗末なものだ。周りには仕事をしていないのか今日が休日なのかも分からない男たちが、酔えればそれでいいだけの粗悪な酒を呷っている。  その中でも、僕たちの存在は異彩を放っていただろう。  片や若者。片や背広をきっちり着込んだ一般人らしからぬ眼光を持つ男。  ついて来いと言われて来てみればこんなところか……と少し肩透かしを食らった。署までご同行願うわけではないらしい。  その証拠に、ここには僕と父しかいない。もう一人の男は店の外にいる。 「お前も煙草を嗜むようになったか」 「普段は吸わない。吸いたい気分ってだけだよ」 「そうか」  煙草の煙を吸い込むと、喉奥が苦しくなり吐き気のようなものが込み上げて来た。勢い良く噎せて咳き込むと、目の前の父はニヤニヤしながら僕から煙草を取り上げた。 「慣れねえことはしないことだ」  僕が一口しか吸っていない煙草を美味そうに吸う父の姿は、どこか懐かしいものがあった。  だからと言って、気を抜いているわけではない。仕事中にこうして刑事がやって来たということは、それなりの意味があるのだ。 「何か用?父さん」 「用が無きゃ息子に会いに来ちゃいけねえか?」 「そうじゃないけど、意味がなければ来ないじゃあないか」 「そりゃあそうだな」  淡々と返し、父は店主に酒を注文した。 「仕事中なのに飲むの?」 「しこたま飲むわけじゃあねえよ。どうせ車は安達(あだち)に運転させる」  安達というのは、あのガタイの良いもう一人の刑事だろう。  店の親爺が持ってきた安い酒をグラスに注ぎ、目の前に置かれる。飲めと言うのか、今の僕に。 「飲め」 「仕事中だよ」 「どうせ会社には今日戻らねえんだろ。戻れる心境じゃねえもんな」  父は、どこまで知っているのだろう。表情からそれを伺い知ることはできない。  煙草を挟んだ指でグラスを持ち、口に運び、「不味いな」と呟いた。やけに様になっているのがどうも癪だ。 「楊紅英の死体が発見されたのは、昨日の昼過ぎのことだ」  僕が酒を口にしたと同時に、父は唐突に語り始めた。 「代々木にある瓦礫置き場に、やたらカラスがいると地元民が不審がって、調べてみたら女の死体が転がっていた。所持品はなし。裸で身許を確認できるものはなかった」 「なんで、それが紅英さんだって分かったんだよ」 「俺が顔見知りだからな。元女房の友人となれば、顔を見ただけで分かる。横浜の家族に確認したらドンピシャだった」  父は僕が新聞を読んでいないから、このように話している。今から新聞を読めといわれるより確実な情報だ。  だからこそ、僕は暗い気持ちになった。やはりあれは、紅英さんだったのだ。  でも何故、彼女が……。  僕は勢い良く酒を呷った。飲みたい気分だった。 「僕は、容疑者なの?」 「そういう見方もある。死体の状態を見ると、発見された段階で死後四日は経っていた。楊紅英が万智のとこに行った夜から翌日にかけて殺された可能性がある」 「僕はやってない。母さんもやってない」 「んなこたあ、よく分かってるよ。死体の異常さを見りゃ、その程度のことは分かる」  短くなった煙草を灰皿に押し付け、父は身を乗り出した。 「聞く勇気はあるか?」 「何を……」 「楊紅英の死体についてだ」  低い父の声が、頭の中をぐるぐると回っていた。鋭い眼差しから顔を逸らす。すると父は僕の顎を無理やり掴んで顔を戻した。 「目を逸らすな。こっちを向け。いいか、向き合え。しっかり受け入れろ」  声こそ大きくはないが、強い語気に僕は怯んでしまった。顎を掴む手を払いのけ、精一杯の強がりを見せるが、大して意味はない。 「裸だったって……暴行とか……」 「そこまでは分からん。まだ詳しい結果が出てないからな。ただ、検死した医者の話しだと……生きたまま腹を割かれたんじゃあないかってな」  それは、どういう意味だ……?身体中に冷たいものが走る。  父は上着の内ポケットから数枚の写真を取り出した。  その写真に写っていたのは、人間とは思えないほど変わり果てた、愛しい(ひと)の姿だった。 「楊紅英は生きたまま腹を割かれ、内臓を取り出され、そこにバラバラにされた子供の遺体を詰め込まれていた。死因は失血かそこらだろう。腹を割かれて長く生きていたとは思えない」  仰向けに寝かされた紅英さんの体の中心は、まるで医学書にある解剖図の挿し絵のように切り裂かれ、ぽっかりと拡がっていた。  その中に詰め込まれているのは、確かに子供だ。小さな頭と手足。そして胴体らしきものが無理やり押し込まれている。近くで撮られたものは鮮明で、子供が少年であることや顔の特徴まで伺い知ることができる。  周囲に散らばる汚物のようなものは、きっと内臓だ。腸らしき長いものが彼女の足に絡まっている。  四肢も無事ではない。肌がところどころ、斑模様(まだらもよう)を描いている。手、足、顔、胸……見るに耐えない醜い体だ。 「父さん、この肌は……」 「皮を剥がされて切り取られている。死後かどうかは、俺には分からん。だが、拷問目的なら腹を割かれる前だろうな」  あぁ、やはり……。うっすらと見える筋肉の筋に、僕は安易な予想を立てていた。  間違いなく、これは僕の愛した女性の死体だ。  彼女は死んだのだ。僕とあの夜、別れてから。どこかの誰かに殺されたのだ。  突然、胃の底から何かが込み上げて来た。小さく呻くと父は立ち上がり、大きな手で口を塞いだ。 「吐くな、飲み込め。知人の死をゲロで汚すな」  低い声に、僕は震えながら込み上げたものをゆっくり飲み込んだ。それを見届けてから、父は僕の口から手を離した。  椅子に座り写真をしまうと、煙草を咥えて火をつける。  僕は呆然としたままグラスに酒を注ぎ足した。 「楊紅英と最後に一緒にいたと確認出来るのは、万智とお前、そして及川という男だけだ」 「及川さんは母さんに相談があって、たまたまあの日に来ただけだよ。夜の七時くらいに、紅英さんは帰った……」 「一人でか?」 「僕が、送って行った。駅まで……でも駅までは送らなかった。途中で、ここまででいいわって……僕はやってない、本当にやってないよ、父さん」 「分かっている。お前にも万智にもアリバイがある。及川という男も同じだ。近所の住民や下宿屋の女将が証言してくれた。疑っていない」  ふう、と父は身を乗り出して紫煙を吐き出した。淡々としているが、先ほどより語気は柔らかい。  グラスを持つ手が震えていた。飲んでも味を感じない。父の声以外、僕の耳には届かなかった。 「お前は楊紅英と何か話したか?」 「行かなきゃ、いけないところがあるって……。でも、どこかは知らない。誰かに会うとか、そういうのも……」  あの夜、彼女と話したことを思い出す。秋の夜空の下で、宝石のような美しい笑みを湛えた彼女が、僕にだけ言った言葉を。 『でもね、私は幸せだったのよ。あなたと同じ時代に生きることが出来たというだけでも、私にとってそれは幸福なことだったわ』 『ありがとう、薫。私を人間にしてくれて』 『生まれ変わったら、夫婦になりましょう』 『私は神様だったのだから』 『死んでも、花の化身になって生まれ変わって来るわ』  頭の中に流れる彼女の言葉は、まるで遺言のようだった。  紅英さんは、自分がこれから殺されることを知っていたのではないか……?  そんな考えが頭に過り、目の前が真っ白になった。 「お前だけが知っていることが、あるんじゃあないか?話してみろ、薫」  父の言葉すら、僕にはぼやけて聞こえた。  僕はグラスではなく、机に置かれた酒瓶を手に取り、それごと酒を一気に呷った。  慌てた父が僕の手を掴む。 「薫、何やってんだ、やめろ!」 「離せよ!こんな時ばっかり父親ヅラして!」  振り払おうとしても、父の手の力には敵わなかった。酔っている。それはよく分かっている。  飲まなきゃやっていられなかった。  僕は、彼女の精一杯の遺言に気付かなかったのだ。  何故、僕は気付かなかったんだ。  何故、ちゃんと駅まで送らなかったんだ。  何故、僕から去る彼女を抱き締めてでも止めなかったんだ。  後悔ばかりが募っていく。僕は彼女の死を止められたのかもしれないのだから。 「父親が父親ヅラして何が悪い。何か知っているのか?話せ、聞いてやる」 「話して分かるのかよ!僕は知らない!彼女が何を考えていたのか、何を思ってあんなこと言ったのか……僕には分からない!」 「おい、薫。落ち着け」 「分からないよ!どうしろって言うんだよ!もう、分からないよ……!」  立ち上がった瞬間、酔いが回った体が、ぐらりと体が揺れた。  倒れそうになった体を抱き支えた父に、僕は子供のように頭を擦り付けた。 「好きだったんだ……本当に、好きだったんだ」 「分かった、もう分かったよ」 「紅英……っ、紅英……」  彼女が死んだという現実が、濁流のように僕の心に押し寄せて来た。涙が溢れ、父の上着を汚した。それでも父は、僕の背を優しく叩いていた。  それは幼い日の父の手に似ていた。  店内はざわめいていたが、僕にそれを気にする余裕はない。父が「出るぞ」と小さく言い親爺に金を投げ、僕の体を引き摺って店を出た。  遠退く意識の中で、父と安達が何かを話しているのを聞いた。  そして僕は、あの写真を思い出していた。  僕だけが知っている、彼女の肌の“一部”がなかったことを……。
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