西成のえくぼ

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西成のえくぼ

あと5分。あと5分で新今宮駅に到着する。 J R環状線天王寺駅が見えてきた。 懐かしい景色だ。何年経ってもこの景色は記憶の奥底にべっとりとへばりついて離れない。 寺田町駅を出発したばかりの環状線に揺られながら、西成での奇妙なあの夜を思い出した。 10年前、私は血と汗を流した会社を去った。 ピカピカのサラリーマン一年生として上場企業に就職し、上京。 慣れない都会の生活に苦しんだが、会社員としての仕事は血尿が出ても必死に食らいついた。 20代後半ながら新しい役職、部下からの信頼、上司からの期待を一手に背負った所謂出世コースに乗った。 しかし、そこには新入社員時のフレッシュな気持ちはなかった。 上司の前の自分、部下の前の自分、本当の自分を見失い心の中の水が汚れていくのを酒でごまかした。 ある日私の心は音を立てて崩れ落ちた。 気がつけば会社に行かず、部屋の片隅で赤ちゃんのように泣いていた。 "うつ病" 診断の結果、今まで遠く離れた場所にいると思っていた病気が私の心を蝕んでいたことを知った。 上司からの提案で退職した。 たった数年のサラリーマン人生。 組織に魅せられ、組織に溺れた哀しき男は荷物をまとめ、故郷大阪へと向かった。 思えば高校から寮生活、大学は一人暮らしと親元を離れる生活を続けていたので、実家で暮らすのは十数年ぶり。 無職の私に両親は優しかった。 洗濯、掃除、食事、何もかもを尽くされた。 10年の時を取り戻すかのように家族みんなの優しさが私に伝わってきた。 その優しさが辛かった。 30歳を前にして無職。 心が壊れ、ただひたすら死までの消化試合をこなすだけの日々を過ごす人間。 飯を食い、酒を飲み、ただ寝る。そんな毎日だった。 そんな生活が2ヶ月続き、いよいよ私は我慢できずに母に告げた。 「おかん、ちょっと働いてみるわ」 母は心配そうな目を向けたが、すぐニコっと笑い、 「ええやん!久しぶりに体動かして汗かいてき!」 と私の提案に賛成してくれた。 病状が悪化するのではないか、しかしこのままの生活が続けばもっと悪くなる。 その葛藤の中、私を受け入れてくれた母。 今思い出すだけで目頭が熱くなる。 翌日、作業着とヘルメットを持ち地下鉄の始発に乗り込んだ。 大学時代にお世話になった現場仕事に向かった。 動物園前で下車。 6番出口の階段を上る。 地上はまだ薄暗い。 踏切を渡り、国道43号線沿いを進みあいりん労働福祉センターへと向かった。 西成の朝は早い。 駅前のローソンでは夜勤明けと思われる初老の男性が日本酒を飲んでいる。 この薄暗い中営業している居酒屋もある。 道にすてられたタバコはまだ火がついたまま。捨てた人間の残り香のように煙が空に向かって伸びていた。 5分ほど歩いた。 「兄ちゃん、現金あるで」 と何度も声をかけられた。 現金とは「日雇い雇用の仕事がある」ということだ。 その日に日当を受け取り労働する。 私のような若者を見つけると必ず声がかかる。 あらゆる声をかき分け、手配師のバンに到着した。 (※手配師とは日雇い労働者の人材斡旋を行う業者) 大学以来の再会に驚いた表情をみせたものの 「ひさしぶりやんか!ええ仕事あるで!ミナミやからすぐ着くわ!」 とすぐ仕事を与えてくれた。 日当の1万円を握りしめ、暗い表情を浮かべた男性5人と地下鉄へと向かった。 現場は心斎橋の有名百貨店の解体作業。 と言いつつも私のような初心者が出来ることといえば、産業廃棄物をただひたすら集めることだけだ。 少しの休憩を挟みながら17時までみっちり働いた。 そんな生活を1週間ほど続けたある日、仕事終わりに一緒に働いていた労働者の男性に声をかけられた。 「兄ちゃん、帰り一杯だけ飲みに行こうや。おごるさかいに」 彼の名前は前田。みんなから前田の兄ちゃんと呼ばれた30代半ばの男性。 彼とは喫煙所でしばしばしゃべったが、抜け落ちた前歯から飛び散る唾液に不快感が止まらなかった。 しかし別に断る理由もなかったので、彼の向かう先について行った。 やってきたのは西成区の動物園前商店街。 まだ夕方だというのに泥酔して、寝ている人がたくさんいるが不思議にもこの街と違和感がない。 彼の向かった先は商店街の路地の中にある居酒屋。「居酒屋千夏」という看板が掲げられていた。 「まいどぉー。つかれたでなぁ」 入店の仕方で前田がこの店の常連客であることはすぐに分かった。 「前田ちゃん、いらっしゃい。今日も男前やね。ビールでいい?」 カウンターにいた20代と思われる女性があからさまなお世辞と共に注文を聞いてきた。 「まいこ、瓶二本たのむわ。歯痛なるくらい冷たいのくれや」 注文の仕方に育ちの悪さが滲み出ると感じたのと同時にこの女の名が「まいこ」ということを知った。 まいこはセミロングの髪をポニーテールにまとめ、濃い化粧で薄っぺらい見た目を少しでも濃厚に見せようとしていた。 まいこが瓶ビール二本とグラス二個を持ってきた。 私は前田の兄ちゃんにビールを注ぎ、前田の兄ちゃんは私にビールを注ぎ、二人で乾杯した。 喉をを通るビールは食道から体全身にアルコールがしっかりわかるほど冷たかった。 「くぅー!もうこのまま死んでもええわ!」 前田はビールのうまさを下手くそすぎる一言レポートで伝えた。 前田の故郷は和歌山県串本町。 解体工事業者に就職したものの、同僚からの誘いで始めた大麻の取引でハメられ、西成に逃げてきたという。 全く興味のない男の身の上話を上の空で聞いているとカウンターの奥にいた女性と目があった。 二重で大きな目、化粧はしていないが眉毛はきっちりとしている。 髪の毛はロングで真ん中の分け目でしっかり分けられている。 肥満ではないが細身でもない。服の上からでもすぐにわかった。 私のドストライクの女性だと本能的に理解するのにそれほど時間はかからなかった。 女性はこちらに近づいてきた。 私は顔が熱くなり、さっさと目を逸らしビールを喉に流し込んだ。 女性の気配に気付いた前田がマシンガンのような身の上話をそっとホルスターに仕舞い込み、静かに口を開いた 「おう、千夏やんけ。珍しいな俺のとこくるん。それより早よ一緒にデートしようなぁ。せや、ふぐ連れてったろ!」 誘い方もデートコースも薄っぺらく汚らわしい。 私は嫌気がさし、おかわりの瓶ビールを注文した。 千夏が空き瓶を取る時、私の手と触れた。 私はさっと手を引きコクリと頭を下げて、手を膝に乗せた。 「お兄さん、西成では珍しいタイプやね」 千夏はそう言うとニコっと笑った。 マイナスドライバーで刺したようにえくぼがくっきりと現れていた。 前田が千夏に「なんか飲みいや」と言うと、彼女は瓶ビールを自分のグラスに注ぎ、我々と乾杯した。 緊張であまり喋れなかったものの、趣味の話や仕事の話で3人で盛り上がった。 話を聞く限り千夏はこの店のママで母親が経営した店を引き継いだとのこと。年齢は27歳で私より少し年下だった。 年が近い分、前田より私に向けて話をすることが多いように感じた。 千夏と前田と三つ巴の会話をしていると気がつけば瓶ビールを10本近く空っぽにしていた。 「前田ちゃん、ごめんやけどもう閉店やで」 千夏は申し訳なさそうに告げた。 しっかり出来上がった前田は舌打ちし、渋々財布からくしゃくしゃの紙切れを千夏に渡し、小銭を受け取った。 前田はトイレに行くといい、席を立った。 トイレに入った瞬間に千夏は小さなメモ用紙を私に手渡した。 「私のLINEのID。店出たらLINEして」 とそこに書かれていた。 二軒目にしつこく誘う前田を半ば強引に押し切り、彼と別れた。 すぐにiPhoneを手に取り、LINEを立ち上げ彼女にメッセージを送った。 返信はすぐに届いた。 「萩之茶屋のONEっていうバーきて!位置情報も送っとく!」 これは夢か幻か。 恐らく飲み足りない彼女は私から最後の一絞りの酒を頂戴しようというだけかもしれない。 いや、間違いなくそうだ。私はただ金を支払う機械。ATM。資金提供団体。 あらゆる最悪のシナリオだけを想定し、自分に言い聞かせながら歩いた。 気づけば時間は深夜に差し掛かり、新しい日付が産声を上げていた。 千夏に指定されたバーは、萩之茶屋駅近くの雑居ビルの5階に位置していた。 ドアに大きく店名が書かれていたのですぐにわかった。 「もう、いっぺん乗った船や。沈没してもしゃーない」 腹を括り、ドアを開けた。 ボックス席2席とカウンターだけのバー。 聞いたことのないダラダラとした洋楽が耳障りに感じつつ入店。 カウンターの1番奥に彼女は居た。 店で見た時より一回り小さく、まるで小動物が飼い主を待つように静かにそこに居た。 私に気付いた千夏はマイナスドライバーで刺されたようなえくぼを自然と作りながら、にこっと笑い自分の席の横を指差した。 「急にごめんやで。お兄さんともうちょっとだけ話ししたいなおもて」 席に座ると千夏はそう私に言った。 「かめへんよ。明日休みやし。マスター、ビール二杯下さい」 日雇い労働者なので休日は自由に決めれる。 初めて自分の職の不安定さが武器になったと感じた。 財布の中は数日分の日当が丸々残っている。 弾はある。後は打ち尽くすのみ。自分に言い聞かせた。 「ごめん、ビールじゃなくて、私は麦のソーダ割で。兄さんごめん、お腹パンパンでビール入るスペースあらへんねんか」 もう、何を頼んでもいい。水でもカルピスでも好きなだけ飲めばいい。私はそう感じた。 ソーダ割りと生ぬるいビールが届き乾杯。 酔っているせいか、ビールののどごしが感じられなかった。 千夏は意外にもといえば失礼だが、小説を好んで読んでいた。 沼田まほかる、東野圭吾、金城一紀など私の趣味と似た作家の話で盛り上がった。 小説の話、映画の話がひと段落し、飲みかけのビールに手を飛ばした頃、千夏は不思議そうにこちらを見た。 「自己紹介もまだしてへんよな?よー考えたら」 彼女はわたしが前田の連れの日雇い労働者ということしか知らない。 私も彼女が居酒屋のママで小説の趣味が合うということしか知らない。 彼女と私では生きている世界が違う。この2人の間には高く、冷たい壁があり、決してお互いの領域に踏み込んではならないと私は勝手に思い込んでいた。 「兄ちゃんから自己紹介してよ。ドロドロの奥深いとこまでな。しかも簡単に」 難題とはこのことかと思いつつ、私は自分の半生について語った。 サラリーマン生活のこと、病気のこと、家族のこと全てをさらっと語った。 彼女は時にうなずき、時に悲しげな目を私に向け、焼酎を啜る時以外は私から目を逸さなかった。 「やっぱりそうやったんやね。見た時からわかってた。なんでやと思う?」 私は、知らんがなそんなこと。と答えた。 「私と手触れた時に頭下げたやろ?私にイヤな思いさせてへんかなー、キモがられてないかなーって本能的に思ったから頭下げてんで。うつは心が弱いからやとか知らん人はすぐいうけど、それは頭悪い奴が言うてるだけ。ほんまは人より自分にも、他人にも思いやりがありすぎるだけやねん」 私は、静かに炭酸の抜けたビールを喉に流した。 千夏は続ける。 「パワハラとかでなっちゃう人もおるから、一概には言われへんけどね。私はそう思うで」 言い終わると千夏は氷がなくなった焼酎を口に運んだ。 「なんで俺さそたんや。それ言うためだけか?」 私は我慢できずに問いかけた。 千夏は私の方を向き、口を開いた。 「私と手触れてすぐ引いたんはあんただけ。直感でもっと知りたいっておもた」 彼女の頬は酒のせいか赤く火照っていた。 空っぽになったグラスと千円札二枚をカウンターに置き、彼女は突然席を立った。 「帰ろ、暑いし。ここは私出すわ」 唖然としている私の手を引っ張り、強引に店外に連れ出された。 外は相変わらず闇の中、朝と変わっているのは私が女を連れて歩いているということだけ。 彼女と私は無言で歩いた。なんの変哲もない男女。彼女の左腕が私の右腕に絡まっていること以外は。 会話もなく、ただ黙々と行き先も決めず歩いた。 私は暗闇の中で光る自動販売機を見つけた。 「千夏、なんか飲むか」 「カフェラテちょーだい」 ポケットのジャリ銭を入れ、ブラックのコーヒーとカフェラテを押した。 その横のアスファルトに座り込み、プシュッとタブを開けた。 「いつまで腕絡めとんねん。あついんちゃうんかい」 私は緊張を紛らわすため、強めの言葉を吐きぐにゃぐにゃに折れ曲がったハイライトに火をつけた。 「嫌なん?ええやん別に。今日だけやし」 千夏は絡めた腕の先でカフェラテを口に近づけた。 「今日だけなん?」 私は思わず聞いてしまった。 「さぁ、どうやろなぁ。それはわからんなぁ」 千夏は悪戯な笑みを作り上目遣いで私を見た。 私はブラックのコーヒーを一口飲み、千夏を横目で見た。 「またLINEしてええか?」 「いいよ。千夏終わってからまた飲みにいこ。別に店きていらんし」 「なんやそれ。もっと言い方ないんか」 私はこのもどかしい時間に耐えきれず、無理矢理立ち上がろうとした。 「待って!」 千夏は私の右腕を両手で抱え込んだ。勢い余ってカフェラテはアスファルトに転がった。 強い力で私の腕を抱き寄せた千夏は 「五分だけ。あと五分だけこのまま一緒におって」 と弱々しい声を漏らした。 「おう。かまへんけど、カフェラテこぼれてしもてるやんけ」 私はハイライトを大きく吸い込み、西成の夜空に目掛けてゆっくり吐き出した。 「また買ってよ。次はスタバがええわ」 半笑いで喋った千夏のえくぼが自動販売機の光でくっきり影を作っていた。 私もつられてふふっと笑ってしまった。 口に残ったブラックがなぜか、いつもより甘く感じた。 五分だけ。たった五分だけの沈黙。 何も喋らず、ただお互いの体温を感じ、同じ空気を感じるだけ。 私達はきっちり五分経ったあと、その場で別れた。ほかに何もせず、短い会話だけしてそれぞれの帰路についた。 それから千夏とは毎週のように会い、酒を酌み交わしたり、天王寺のショッピングモールで暮らすだけの日もあった。 何もなかったが、それが幸せだった。 私は職安の紹介で鉄工所に勤め始めた。 休みの日は必ず千夏と会った。 しかし、国外出向の名目で3年間のタイ赴任が決まっても千夏はイヤな顔一つせず、むしろ「男磨いておいで。1発やってこい!」と強く背中を押してくれた。 3年間一度も会わず、私は仕事に没頭した。 千夏を忘れるためにとは言わないが、思い出すと無性に会いたくなるので働き続けた。 それでも夢に必ず彼女がいた。 海外出向が終わり、帰国した。 森ノ宮で一件商談を済ませて、急ぎ足で環状線に乗り込んだ。 あと五分。あとたった五分で千夏に会える。 千夏のえくぼのようにくっきりへこんだ3年間の溝を埋めてやる。 腕にあの夜の"五分"の温もりを感じながら。
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