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「や、よく来たね」
扉の前でインターフォンを押すと、お姉さんはいつも通り扉を開けてくれた。僕は少し緊張しながら部屋に上がる。
このマンションに越してきたのは僕が小学2年生の時だった。
僕が小学校に入学して一年も経たないうちに、父さんが交通事故で亡くなった。それがきっかけだった。
その時は突然のことで何が起こったのか分からなかった。ただ、普段は絶対に泣かない母さんが涙していたのを見て、ふつうじゃないことが起こったんだな、ということだけは分かった。
お姉さんは、僕と母さんが住む部屋の右隣に住んでいる。母さんが仕事で帰る時間が遅くなる時は遊びに行っていいことになっている。
「はい、お茶。ジュースとかじゃないけどごめんね」
「全然、大丈夫です。お茶とか好きです」
「そう? 何か無理してるみたいに見えるけど」笑いながら彼女は言う。
まあ、いいんだけどね。と一言つけ加えた。
何回来ても慣れない。どうしても緊張してしまう。
「うゔん」
お姉さんは一つ咳払いをして話し始めた。
「今日君に来てもらったのには理由があるんだ」
そう、今日は珍しくお姉さんから呼び出しがあった。母さんにも許可は得ているらしい。どこかに出掛けるのだとか。
「今日は流星群を見に行くんだよ」
「流星群?」
「そ。星が何か、ばあーっとたくさん流れていくやつ」お姉さんは両手を広げて身振り手振りでそれを表した。
「で、今日見に行くのが、ええと。レモン座流星群、ってやつ?」
レモン座流星群? 少し前に学校で習ったとき、そんな星座は無かったような気がする。僕は首を傾げる。
「まあ、観れなくてもファミレスとかでパフェでもおごってあげよう」
「は、はい」
「なんだ、乗り気じゃないの?」
「いえ、どう反応していいのか分からなくて」僕は少し申し訳なくて下を向く。そんな僕を見た彼女はふふ、と笑ってから言った。
「なんだ、恥ずかしがり屋なのか。まったくかわいいやつめ」
僕は返答を考える。
「……恐縮です」
「ふふっ、恐縮って」
***
夜のドライブは不思議な世界に繋がっているような気がする。車がどんどん加速していって、どこかにワープしてしまいそうだ。
その感覚を忘れないうちにノートに書き込む。
僕はいつもペンとノートを持ち歩いている。気になることや考えたことを書き留めておくためだ。
「えらいねえ。ノートなんて取ってるの?」
「はい。でも全然えらくはないです。歯磨きするのと同じ」
「それがなかなか難しいんだって」ふざけて拗ねたみたいな口調でお姉さんは言う。
「そうなんですか?」
「そうそう」
僕はノートに視線を落とす。そうか。なかなかできないことなのか。知らなかった。右手に握ったペンを眺める。
父さんが使っていた万年筆。父さんもいつも、何かを思いついたらノートを書いていた。それを僕がもらったのだ。
父さんは趣味で小説を書いていた。頭に浮かんだアイデアを、この万年筆を使って物語につくり替えていた。
車の外の灯りを反射して、時々ペン先がきらきらと光る。父さんが机に向かっている背中が、ふと頭の中をよぎった。
急に胸のあたりがぎゅっとなった気がして、それを振り払うために正面を向く。
「コンビニ着いたし、何か食べるもの買っていこうか」
お姉さんの後ろで真っ白な照明が輝いてた。
***
僕はメロンソーダを買ってもらった。お姉さんはレモンティー。二人とも夕飯は食べていなかったので、彼女はおかずをいくつか買っていた。「おにぎりは作ってきたからね」と話していた。
目的地に向かう車の中で、メロンソーダのボトルに街灯の明かりが反射する。きらきらしてきれいだ。
ふとお姉さんの方を見る。レモンティーを飲んでいる。オレンジと黄色の光が揺れる。彼女の目があまり楽しくなさそうな感じがして、胸の奥がざわつく。僕は何か話した方がいいのだろうか。
「明かりが無い場所の方が、星はよく見えるらしいからね。ちょっと街から離れたところに向かうよ」
「はい」
僕はそれ以上何も言えずに、静かになることしかできない。
どれくらい時間が経っただろう。辺りはすっかり人気が無くなった。ぽつぽつと山道に街灯が続いているくらい。それももう終わる。
「もうそろそろかな? 準備はできた?」
「はい、大丈夫です」
「よしよし」
この車が走る音だけが響いている。山道の少し先に開けた場所が見える。お姉さんはそこに向かって進んでいるみたいだ。
車が止まる。
「よし、着いたよ!」彼女はそう言って扉を開く。ガチャ、という音と共にひんやりとした空気が車の中に入ってくる。
僕も助手席側の扉を開けて外に出る。草木のざわめく音。服の隙間を風が通り抜ける。空を見上げると、一面、星が敷き詰められている。本当はこれだけの星が毎晩、夜空に輝いているのだと知ると、何だか不思議な気持ちになった。
「ちょっと手伝ってくれる?」車の後ろに頭を突っ込みながら、お姉さんは言う。
「あ、はい」
先ほど買ったおかず、おにぎりの入った弁当箱に水筒。レジャーシートとランプ。次々に食べ物と道具が飛び出してくる。二人でそれらを運ぶ。
お姉さんはレジャーシートを広げて金属の棒で固定する。「これはペグっていうんだよ」と言った。
シートの中心にランプを置いて、それを取り囲むように食べ物を並べていく。準備をしているあいだ、彼女はとても楽しそうで僕はほっとする。
一段落してシートに座る。地面がいつもより近いせいか、草と土の匂いがよく分かる。
「はい、これ」お姉さんは僕に紙コップを渡して、水筒のお茶を注いでくれる。「ありがとうございます」僕はお礼を言う。
コップ越しにお茶の冷たさが伝わってくる。覗き込むと、それに夜空が映り込んでいる。
「かんぱ~い」自分のぶんを注ぎ終えたお姉さんはコップを少し持ち上げる。僕はそれを真似して同じようにする。
「星きれいですね……」僕は正直に思ったことを話す。
「でしょ、夜空にこんなにたくさん星があるなんてびっくりだよね」
「です。びっくりしました」
静かだ。とても静か。普段の生活のなかでどれほどたくさんの情報に触れているのだろうと思った。
「静かですね」
「うん、静かだね」
「僕、こういうの好きかもしれないです」
「あ、やっぱり? 何となくそんな気がしてたんだよね」
「そうなんですか?」
「うん」
僕とお姉さんは持ってきたおにぎりやおかずを食べる。ランプの明かりを頼りに食べるのも、何だか秘密基地みたいで楽しい。
「おいしい?」
「はい、おいしいです」
「そう、それはよかった」
「はい」
しばらく無言で食事をする。星空の下だといつもより味がはっきりと分かるような気がする。
一段落したころ、お姉さんが口を開いた。
「ごめん、あのさ」
「はい」僕は彼女のほうを見る。
「最初、出発する前に言ってたこと、嘘なんだ」
最初に言ってたこと? 思い当たることと言えばあれだろうか。
「レモン座流星群ですか?」
「そう、それ」
彼女は大きく息を吐いて、ふっと笑ってから続けた。
「冷静に考えて、なんだよそのネーミング! って自分にツッコミ入れてたんだけどね。何だか、理由がなくっちゃ誰かを誘っちゃダメな気がしてねぇ」
「理由ですか?」
「うん。例えばさ、何のために学校に来てるの? とか、何のためにアルバイトしてるの? とか。どうしてそこに行きたいのか、何のために生きてるのかみたいな。そういうことを、ちゃんと自分で、分かっていないといけないことがあるんだよ。で、それが分かってないと、ちょっとまずいよね。駄目だよね、みたいな空気があって……」
僕はお姉さんの顔を見る。とても苦しそうな表情をしている。今にも溺れそうで、どこにも逃げられないみたいな顔。
「自分でもどうすればいいか分からなくて、苦しくなっちゃうんだ。けど、誰かに相談したくても、そんな程度のことで悩んでるの? って言われそうで怖くなって、誰にも何も言えなくなる」
時々、母さんも、彼女と同じ表情をする。けれど、僕がそれを見ているのに気付くといつも通りの表情に戻る。何とかしたいけれど、僕にはその方法が分からない。分からないまま流されるみたいに時間が過ぎていって、いつしかそれは無かったことになる。確かに僕は見たのに。どうにかしないとと思っているのに。
「まあ、だから、レモン座流星群なんて無いんだ。ごめんね? 変なことしちゃって」
頑張って笑っている。それが分かってしまう。
何とかしたい。苦しい思いをしている人をせめて笑わせたい。
手の平に力が入る。鼻の奥がツンとする。何もできない自分が悔しくて。
「あれ……」
ふと、ズボンのポケットが熱を持っているのに気付く。手を入れる。
万年筆だった。お父さんの万年筆が、熱を持っている。指先でつまんで引っ張り出すと、黄色く光っている。
「なに、それ?」お姉さんが光に気づいて覗き込んできた。
キャップを外すと、光は一層強くなる。小さな粒がいくつも空気中に渦巻いて、まるで意思を持っているみたいに見える。
僕は万年筆を振るった。どうしてそうしたのか、自分でも分からなかった。あえて理由をつけるなら、そうしたかったからだ。
一筋の光が空高く昇っていく。夜空にそれが吸い込まれたかと思うと、一瞬の沈黙の後で、光がぱあっと散った。
それは流れ星になる。眩しい黄金色の、光の筋になって伸びていく。パチパチと火花を散らして広がる。夜空全体を包み込んで、僕たちのいる場所すら明るく照らす。
僕はもう一度お姉さんの顔を見る。大きく目を見開いている。口が少し開き気味になって、ちょっと口の両端が上がっているように見える。ちょっと嬉しくなって僕も笑う。
それはしばらくの間続いた。僕たちは言葉を発しないまま、ずっとそれを眺めていた。
静かになった。またいつも通りの時間が戻ってきた。お姉さんは僕に訊く。
「今のは何だったの?」声に少しの興奮が混じっている。
「分からないです。どうしてあんな風になったんだろう……」
「もしかして今のがレモン座流星群?」
「あ、そうかもしれないです。きっとそうです」僕も興奮気味に応える。
少しの沈黙の後、二人は笑いを堪えきれなくなって、大きな声で笑った。ずっとずっと、笑った。風の匂いに、ほんの少し甘酸っぱいレモンみたいな匂いが混じっていた。
***
「こんな時間まで連れ出しちゃってすいません」
僕らは帰ってきた。お姉さんと母さんが話している。
「いえいえ、いいのよ。むしろこの子も楽しそうで、私も助かってるもの」
「本当ですか。それはよかったです」
「また何かあったらよろしくね」
「はい、その時はぜひ!」
楽しそうな二人の横で、僕は眠たくなっている。二人の会話もあまり聞き取れなくなってきている。
「じゃあ、また遊ぼうね。おやすみ」
お姉さんの声に僕は頷くことで返事をすることしかできない。
「ごめんなさい。もう眠くなっちゃってるみたいで」
「いえいえ、今日はありがとうございました」
帰っていくお姉さんの声が、心なしか弾んでいるような気がして僕は嬉しくなる。ぼうっとする頭の中で、今日はよく眠れるなと思った。
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