彼の場合

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彼の場合

 いっそ消えてしまえばよかった。彼女は肌をあわせた後、いつもこう言った。  キャンパスの空気を悠然とかき分けていく長く黒い髪に、最初に魅入られたのは僕だった。「まるで人魚姫のようだ」と伝えると、彼女は眉根を寄せて困ったような、不満げな顔をした。そりゃそうだ。腰までの長い髪は容易に人魚姫を連想させる。彼女はこれまでも同じ文句で口説かれてきたに違いない。  そんな冴えない出会いだったのに、何が彼女の気に入ったのかわからないが、僕たちはすぐに恋人同士になった。彼女が僕のワンルームに入り浸るようになってから、僕はベッドのシーツを新調した。紺碧色のシーツに彼女の髪がうねり、広がり、絡まり波打っている様を見ると、色とりどりの珊瑚たちや乳白色のいそぎんちゃくが揺れる海の中で、人魚を組み敷いている気分に襲われた。そんな時彼女は、僕の頭の中をすっかり覗いているかのように、唇を横に引いて嫣然と笑った。その笑顔は僕を彼女との行為に益々没入させた。  僕は彼女にすっかり夢中になっていたが、僕の友人達からの評価はすこぶる悪かった。血管が青く透けるほどの色白に漆黒の髪は正直不気味、表情に乏しく陰気、友人が皆無、他にも色々と難癖をつけられたが、友人達が一番に問題にしたのは、彼女に他の男がいるらしいということだった。  僕は友人の噂を一笑に付した。彼女と僕は同じ学部で、履修している授業の重複も多かったし、この頃は授業が終わると彼女はたいてい僕のアパートに来ていたので、他の男と会っている暇はない筈だった。「でも」とサーフィンが日課の友人は力説した。 「先週水曜日、夜明けに海に出たら、男と一緒にあの子が居たんだ。あの長い髪、背格好、絶対そうだよ。」 「まさか。」  僕はかぶりをふった。先週水曜日、彼女は僕のアパートに来ていたはずだ。でも、僕の寝ている間にアパートを抜け出し浜辺まで出て、明け方戻ってくるのは決して不可能ではない。僕は俄かに不安になってきた。  確かにいくら入り浸っていると言っても、彼女は毎日泊まっていく訳ではないし、週末は実家にいると言われることが多い。疑い出せばきりがないが、そうやって適当に言い訳して、実は他の男と会っていた可能性が全くないとはいえない。そもそも僕の方が惚れ込んで付き合い始めたようなものだったではないか。これまで女の子に格別モテた経験がないのに、なぜ彼女との交際にこれまで何の不安も抱かなかったのか。僕は自分のめでたさ加減に気付いて愕然とした。  しかし一方で、他の男に会うなら他の日でいいのに、なぜ僕のところに泊まる日に敢えて海に出て男と会う必要があるのかとも思った。大体、友人が夜明け前の暗がりで見たのは、本当に彼女だったのか。僕は半信半疑ながら、今夜は寝ないで様子を窺うことに決め、夜に備えて学食のまずい珈琲をがぶ飲みした。  しかしその夜、僕は結局いつものように彼女に絡め取られ、貪られ、吸い取られ、そのまま正体もなく眠りに落ちてしまった。僕が朝日に目を細めながら起き上がると、彼女は既に起きていて、冷蔵庫にあるもので簡単な朝食を作っていた。しかし、顔を洗いに洗面所に向かう僕が、彼女とすれ違いざまに嗅いだのは、彼女の焼いている卵の甘い香りではなく、生臭い海藻のそれであった。  その日以来、僕は彼女が家に来ない日に明け方の浜辺を散歩するのが日課になった。本来ならば計画のリベンジをするべきだったが、情けないことに、僕は彼女の性的誘惑には一度も勝てなかったのだ。  突然現れて、毎日のように浜辺をぶらつく僕は、サーファーたちの目に狂人とうつったことだろう。しかし一人に打ち明け話をしたら軽いノリで面白がってくれ、協力してくれる人が次々と現れた。目撃情報をつなぎ合わせると、長い髪の見知らぬ女性がたびたび浜に現われるのはどうやら本当らしかった。それなのに一向にしっぽを捕まえられないまま日々は過ぎ、僕はイライラすることが増えた。彼女の様子は相変わらずだったが、体を抱き寄せるたび、唇を合わせるたび、彼女の肌からは海のにおいがする。そんな時僕は息もできないような独占欲に支配されて、いつも以上に彼女を責め立ててしまうのだった。  ひときわ寒くなった秋のある日、僕は大幅に寝坊した。もう今日は散歩はよした方がいいくらいだったが妙に心がざわついて、着替えもそこそこに部屋を飛び出した。浜に着くと案の定空は随分明るく、水平線近くの波は白くちらちらと光って、太陽がすぐそこまで昇ってきていることがわかる。堤防から浜辺を見渡すと、波打ち際に小柄な女性の姿が見えた。堤防の階段を降りるのももどかしく砂浜に出、確証もないのに彼女の名を呼んだ。  果たして、僕が見たものはやはり彼女であった。ただ彼女は一人で、そして何故か泣いているのであった。 「あと一日だったのに。あと一日で、私は泡にならずに済んだのに」  彼女はそう言うと、首に手を回して抱きついてきた。僕は腰を抱き寄せ、磯臭い黒髪をかき分け唇を合わせた。  彼女はしばらくキスに応じていたが、「もうお別れしなければ」 といいながら両腕で僕の体を浜の方へおしやり、一人で海に入っていった。海中を進んでいるというのに彼女の姿はあっと言う間に小さくなっていく。僕はやっとのことで追いつくと彼女の腕を掴んだ。  掴んでみてぞっとした。彼女の腕は紙のようにぺらぺらになっているのだ。僕は慌てて彼女を抱きかかえようとした。しかし彼女の肩も背中もあの美しい髪も、急速に形を失って指の間からもろもろと崩れていってしまう。 最後に彼女の声がかすかに聴こえた。 「今までありがとう。大好きだったよ」  そして、彼女は完全に海の中に溶けてしまった。 「ごめん…」  僕は呟いたが、僕の周りにはついさっきまで彼女だった白い泡立ちが漂っているだけで、彼女にその声を届けるにはもう遅すぎたのだった。
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