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序
7月16日。柳由美、中学一年生。夏休み目前、期末テスト、数学のテスト中だった。突然、どこからかけたたましく電子音が鳴り出した。由美は自分の鞄からだと気づくのに数秒を要した。由美が好きなロックバンドの曲が流れていた。
数学の橋詰先生はゆっくりと勿体ぶって由美の席まで来ると、机をとんとんと指で叩いた。携帯を出せと低い声で先生は言った。未だになり続ける電子音。携帯を出そうと鞄に手を伸ばす。由美はざわめく他の生徒など気にならなかった。意地悪な顔で見下ろしている橋詰先生も気にならなかった。由美は携帯がなり止まない理由の方が気がかりであった。この曲は菜々がかけてくる時の着信音だ。菜々は滅多に学校に来ない。携帯を取り上げられたくないから授業中にはかけるなよと由美はいつも菜々に言い聞かせていた。その菜々が今日はテストと知りつつも電話を掛けてきているのだ。由美は鞄を掴むと素早く立ち上がり、教室を抜け出した。いやな予感がする。橋詰先生が何か怒鳴っていたが、気にしていられない。逃げる宛もなく走る。一階の隅にある由美のクラスからまっすぐ行くと下駄箱だった。上履きのまま外に飛び出し、鞄の携帯を取る。走りながら電話に出る。
「菜々!どうしたの?」
しかし、電話の向こうは無言だ。いや、微かにすすり泣く声が聴こえる。
「菜々!」と由美がもう一度大声で呼びかけると、「由美、」と消え入りそうな声が聴こえた。学校から200メートルほどの距離にある公園に行き着き、由美はようやく走るのをやめた。辺りを見渡す。橋詰先生がずっと後ろにいる気がして止まるタイミングを失っていたのだ。
「どうしたの?」由美はできるだけ優しい声を意識して尋ねた。
「由美、あのね、俊幸が殺人で逮捕って…」
由美は菜々の言葉の意味が理解できず、何も言えなくなった。俊幸とはあの着信音のビジュアル系バンド『腐敗性物質』のヴォーカルのことだ。混乱してすぐには俊幸と言われてもどこの誰か分からなかった。由美は不思議と冷静な面もあり、言葉を失うとはこういう感覚かと納得していた。後々、本当に冷静になって現実逃避とはあのことかと納得するのであるが。その時の由美には情報の整理がつかない状態だった。
「今ニュースでやってるよ」と逆に落ち着いた様子で菜々が言った。テレビの音がかすかに聞こえる。音量を大きくしたようで内容が聞こえてきた。
アナウンサーが淡々と経緯を読み上げていた。
『昨夜未明、〇県〇市の住宅街で起きた通り魔事件の被疑者であるとロックバンド『腐敗性物質』のヴォーカル俊幸こと、本名新田俊幸容疑者32歳が警察に出頭し、殺人罪の容疑で逮捕しました。詳しい動機はまだわかっておりま―』由美は電話を切った。これ以上は心が耐えられないと脳が察したのだと思った。菜々はかけなおしてくることはなかった。昨夜の降った大雨で公園の土はぬかるんでいた。上靴に泥がはねて、菜々と二人で書きあった『腐敗性物質』のバンドマークが茶色く塗りつぶされていた。由美はなんとなく、空を見上げた。昨日の雨なんてなかった事のように晴れていた。空ってこんなに高かったっけ?と思った。透き通る青とその手前にある白い雲、それらの奥にある太陽。すべてがいつもより遠くに見えた。教室に戻らないといけないとわかってはいたが、しばらく天を仰いだ。
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