1. 夜の始まり

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1. 夜の始まり

頭の上に置いたスマートフォンの呼び出し音で目が覚めた。  まだ眠っていたい余韻を感じつつ手を伸ばす。ディスプレイに表示された名前を見た瞬間、放置と決めて起き上がる。  すでに日は傾いていて、部屋には西日が差し込んでいた。時計を見るとちょうど午後六時だった。  シャワーを浴び、短い髪にドライヤーを当てて乾かしながらメール、メッセージアプリを確認する……他愛のない内容ばかり。  それらを一旦置いて、冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出し、コップに注ぐ。  一息でジュースを飲み干しSNSを開くと、自分が働いている場所のポストが目に入った。美香子ママ、相変わらずマメだわ。  ざっと新規のポストをチェックし、それが終わったら着替えて出勤の準備だ。今日は月末の金曜日だから、客入りは普段の倍を見込んでる。  大きめのバッグにメイク道具一式が入ったポーチを突っ込み、つけまつげやスパンコール、タトゥーシールが入ったもうひとつのポーチも鷲掴む。  お腹の虫がぐう、と鳴った。電車に乗る前に、角のパン屋で何か買って楽屋で食べよう。  部屋を出ようとして靴箱の上のフォトフレームが目に入った。フォトフレームにはわたしの憧れだった、マイヤ・プリセツカヤのスチールを飾ってある。普段は伏せているのに、昨日は酔った勢いで久しぶりに立てかけてしまったのだ。  フォトフレームをそっと伏せ、ドアを開ける。淡いピンクオレンジに染まる空を、しばし目を細めて見入る。  みんなが帰宅する時間、家でリラックスして一日の疲れを癒す時間が、わたしの仕事時間だ。今日も踊るぞ、と心の中でポーズを作り、わたしはアパートの階段を駆け下りた。  アパートを出て駅に向かう途中、最初の角にすっかり常連と化しているパン屋……正式名称「ブーランジュリー・ルージュ」がある。  そのおしゃれな名前とは裏腹に、見た目は昔ながらの「街のパン屋さん」。あまり自炊をしないわたしの、強い味方だ。  昼間は奥様方で賑わっているけれども、閉店間際のこの時間、店内には二、三人の客しかいない。暇そうに棚を拭いていたマサくんが、お店に入ったわたしに声をかけてくれた。 「いらっしゃい、ショーコさん。いつもの取っといてあるよ」 「ほんと? ありがとう」  マサくんはピザパンを紙の袋に入れると、「後はたまごサンドだよね。こっちはオレからのサービス」と言って、ラスクが入った袋を掲げて見せてきた。 「いつもありがとうね」 「どういたしまして。常連さんにはサービスしとかないとね」  マサくんは、ちらりと店内を見渡し、他の客がこちらを見ていないことを確認すると、そっと耳打ちしてきた。 「オレもいつか、ショーコさんとこ遊びに行くからさ。サービスよろしくね」  それに曖昧に笑いながら、お店を後にする。マサくんは、わたしがどんなところで働いているのかちゃんと把握していない。説明しても「バーレスクダンス」というのが今ひとつピンとこないらしい。
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