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神の涙(オアシス)
誰も彼もが、頭の上に大きな瓶を乗せて持ち、砂漠の楽園:神の涙と呼ばれるオアシスを目指し歩いている。
その殆どは、身軽で涼しそうな格好の上に、ベージュ色のローブを身にまとっていた。
その中で唯一、漆黒のローブをまとった男は、一列に並んで歩く人の群れを、途中離脱し、あらぬ方向へと歩き始めた。
そんな男の姿が、目に入ったのだろう。
誰も連れず、ただひとり列に並んでいた幼い少女が、男を追い、列を外れた。
「どうされたのです? お嬢さん」
人の群れとだいぶ外れた頃、男は立ち止まり、後ろを歩いていた少女は、驚いて顔を上げる。
ベージュ色のローブを目深にかぶっていた少女の顔が露になる。
深紅の髪はボブで、深紅の瞳は幼さに拍車をかける大きさだった。
困った顔に見える短い下がり眉は、男を警戒してか、キリッと上がり眉になり、二歩下がった。
その時、風がふいて、少女を隠していたローブは飛んでゆき、露出度の高い踊り子の恰好が見える。
それは、紫のスパンコールで描かれた鳳凰よりも、少女の健康そうな褐色の肌に目がいってしまう程だった。
「あ……あたしはただ、自由なだけよ」
男は深い溜息をついて、自分がまとっていた漆黒のローブを脱ぎ、少女に差し出した。
その下に着ていたのは、白い神父服だった。白銀の髪は腰まであり、整いすぎた顔は冷たい印象を与えた。その中で唯一、漆黒の瞳だけが優しさを感じさせた。
「私はいいから着てください。お嬢さんの恰好は目の毒です」
「いらないわ! そんなの」
振り払われた漆黒のローブは宙を舞い、空高く消えていった。
私は悪くないもん。
そんな声がしそうなむくれ顔で、少女はそっぽを向く。
「……仕方ないですね。ついてくる気ですか?」
でも、その言葉に再度、男を見上げる。
「あたし、人と同じことするの嫌なのよ」
「だったら、なぜ追ってきたんです?」
ぐっと言葉につまる少女に、一歩男が近づく。
「な! なにっ」
右手をあげた男に、少女は目をギュッとつぶる。
けれど、ただ頭をヨシヨシと撫でられただけだった。
「私はシュトバーンと言います。あなたは?」
「み……見ず知らずの人に名前なんて…………っ」
動揺を隠せない少女は、今度は強めに男を振り払う。
その時、シュトバーンの右手の甲を爪で引っ掻いてしまったのか、つぅっとそこから血がにじんだ。
「あ……!」
「大丈夫です。怖い思いをさせましたね」
ニコニコと笑うシュトバーンに、流石に反省した少女はうなだれる。
「あたし……ヒメカよ」
俯きながら言うヒメカに、シュトバーンはただただ笑顔を返した。
「私はこれからオアシスに向かいます。あなたはどうします……?」
ヒメカはえっと声を上げ、なぜ? と目を丸くしながら、顔を上げる。
「私が求めるオアシスは、このすぐ向こうです。……ただし、来るのはあまりお勧めしません」
その時、ヒメカは、酷く困った顔をした。
「……ひとりにされたら死んじゃう」
シュトバーンは苦笑し、すぐに笑顔に戻った。
「行きましょうか。本当のオアシスへ」
◇
シュトバーンが向きを変え、慌ててヒメカが隣に並び、ふたり、一歩歩くと、空から雨が降ってきた。
「!?」
身をすくめたヒメカだったが、いくら待っても、服は濡れなかった。
「……これが、「神の涙」ですよ。濡れません」
ふたりは空を見上げた。
空からは雨が降り続けている。
「この雨は触れられません。その場に足を踏み入れるまで見えもしません。しかし、浴びたことで効果はあります」
「どんな?」
シュトバーンは突然、キョロキョロと辺りを見まわし、ボロボロのローブをまとった、仰向けに倒れている少年を見つけた。
そして、ヒメカに答えることなく、少年のもとへ駆けていってしまう。
「ちょ……! 答えてよ!」
「……来ればわかります」
傷ついて気絶している少年は、少女のようにも思えた。
初めに少年だと思ったのに、少女のようにも見えたのだ。
「この子……」
「少し待ってくださいね」
シュトバーンは少年のような少女のような謎の人物を抱き上げ、来た道を戻り始めた。
「教えてよ!」
チラリッとヒメカを見て、シュトバーンは笑う。
「なにがおかしいのよ!」
「この子は無性、ゼロムですよ。ヒメカ」
ギョッとした。
無性と言えば、この世に唯一人しかいないと言われている。
しかも、神の怒りに触れ、地上に落ちた罪人だ。
近づく者に、不幸を与えるという。
「どうするのよ!? そんな子」
ヒメカは感情のままに叫んだ。
「だから言ったでしょう? 来るのはあまりお勧めしないと」
シュトバーンは、その言葉とは裏腹に、愛しさをこめるように優しく、ヒメカに微笑んだ。
「あ」
「どうしました?」
ヒメカが怪訝そうな顔をしたので、シュトバーンはその顔を覗き込む。
「あの雨はなんだったの?」
シュトバーンはふと、抱き上げたままのゼロムを見下ろす。
「神の怒りの涙だと言われる方もおりますが、私はそうは思いません」
「……じゃあ、何?」
「後でちゃんと説明しますよ。今は、宿屋に行きましょう。ゼロムを休ませたい」
「わ、わかったわ……」
◇
ふかふかなベッドに沈んでゆく感覚に、ゼロムは目をそっと開けた。
ベッドの右側には、ヒメカが椅子に座り、逆側にはシュトバーンが立っている。
『……君達は』
そこまで言って、ハッと体を起こし、眩暈を感じたのか、ふらつくゼロムをシュトバーンが支えた。
「ゼロム、あなたにお願いがあるのです」
起きて、まもないゼロムに、シュトバーンは願いを伝えた。それは……。
「私を不幸にしてほしいんです」
『!』
ゼロムは目を見開き、ぶんぶんと首を横にふる。
『あなたはそれでいいの?』
シュトバーンは、コクリと一度頷いた。
『……そう』
ゼロムの繊細で美しい顔が歪む。
「すぐじゃなくていいんです。ただ、少し考えていただければ」
◇
ゼロムは暫く、俯きながら沈黙していた。
シュトバーンはヒメカにおいでと声をかけ、その宿屋を一度出た。
「置いてきてよかったの……?」
ヒメカが怪訝そうな顔で見上げてくる。
「ゼロムにも時間が必要でしょう。私を不幸にする決意をする為の」
おかしいよって言いたげなヒメカの腕をひいて、あちらこちらで買い物をするシュトバーン。
「そんなに買い物して、お金なくなっちゃうよ。宿屋も高級宿屋じゃない」
そう、先程ゼロムを泊まらせたのは高級宿屋。
それは貴族が泊まるような、とてもゴージャスな白銀のキラキラした部屋。
壁には白龍の絵がぐるりと繋がっていた。
床は雲の刺繍のカーペットだった。
「あんなふかふかなベッド、寝たことないわ」
「……ゼロムの為ですからね」
「無理してるって言うの?」
「さぁ、どうでしょうね?」
ヒメカにはシュトバーンの意思がわからなかった。
余裕があるのか、無理してるのか、なぜ不幸になりたいのか、何ひとつ。
『決めたよ』
意識にダイレクトに声が聞えた。
『ふたりとも戻ってきて』
それは、ゼロムの声だった。
◇
僕はふたりを宿屋に呼び戻した。
先にドアを開けたのは荷物をたくさん抱えたヒメカだった。
『イシュトはどこ?』
「……? イシュト?」
ヒメカは首を傾げた。
イシュトなんて人は知らなかったから。
『シュトバーンの事だよ。イシュト』
どういう意味か聞こうとした時、開いたままの入り口のドアを、コンコンと2回、シュトバーンがノックした。
「開いてるじゃない!」
言葉を遮られたことで、ヒメカは怒りの形相でシュトバーンを振り返り、絶句した。
シュトバーンの神父服が、真っ赤に染まっていたから。
ノックだと思ったのは、体をドアで支えた時の音だったようだ。
「なんで急に血まみれなのよ!」
ヒメカにはわけがわからない。
『部屋に戻ったということは、それでいいんだよね?』
けれどゼロムは、なぜか理由を知っているようだった。
「え?」
ヒメカはふと思い出した。
シュトバーンがゼロムに、不幸を願ったことを。
「やめてよ! なんでよ! 不幸って死ぬことなの!?」
叫んだヒメカの脳裏には、船が海賊たちにめちゃくちゃにされ、女子供以外の男がすべて虐殺された光景が蘇る。
『イシュトが望んだんだ。それに君だって不幸を承諾したでしょ?』
「不幸の承諾なんてしてない!そんなこと言葉で言って……」
ヒメカは、ないまで言えなかった。
「ヒメカ……。ゼロムを恨まないでください。あなたは、「神の涙」に触れたのだから」
ズルッと床に崩れ落ちるシュトバーンをヒメカは抱きしめる。
弱くなって聞こえなくなっていく。あの優しかった瞳が、焦点をなくしてゆく。
「鼓動がしないよ……?」
『もうすぐ彼は』
シュトバーンはゼロムの元に戻った。
ゼロムは決めたと言っていた。
きっと、部屋に一歩踏み入れた時、シュトバーンの死は決まったに違いない。
「助けてよ!!」
ヒメカは過去の記憶の渦に飲まれ、ひとりぼっちで泣いた。
◇
人形のように動かないシュトバーンを抱きしめるため座り込んだまま、ヒメカはゼロムを睨みあげた。
ゼロムはシュトバーンのもとまで来ると、そっとヒメカに手を伸ばした。
ヒメカは首を振り、そこから立つことも去ることもしない。
『助けたい?』
ゼロムの表情は一切変わらない。
シュトバーンを殺した時も、今も。
「助けてくれるの?」
ヒメカは警戒しながらも、希望も宿していた。
『そもそも、それ僕がやったわけじゃないしね』
「え……?」
ゼロムはスッとヒメカの額を人差し指でつついた。
脳に直接流れ込んでくる映像には、ここに来るまでの光景が映っていた。
「シュトバーン、それ持たせて!」
見たこともない高級品をたくさん抱えていたシュトバーンに、ヒメカはおねだりした。
「……やめた方がいいですよ」
「どうして?」
シュトバーンは困惑した顔で、林檎をひとつ、ヒメカにあげた。
「これだけにしてください」
その言葉を聞かず、ヒメカはごっそりとシュトバーンの荷物を奪った。
林檎以外を。
仕方なく林檎だけを胸にしまうシュトバーン。
満足げなヒメカ。
その時、風が吹いた。
ヒメカの足元に。
「!?」
それはドクロの魔法陣だった。
「やはり発動しましたか……」
ヒメカの脳裏に、先程見た海賊たちの顔が浮かびあがる。
先程まで朧気だった。忘れようとした顔。
その頭であろう太刀を持つ男の顔は、シュトバーンだった。
そう感じた時には遅かった。
ヒメカは腰に下げていた短刀で、シュトバーンの胸を刺していた。
「……ようやく私は、死ねるのですね」
シュトバーンの許されたような声に、ヒメカはハッと現実に戻る。
そして、何もかも投げ捨ててシュトバーンから逃げようとしたヒメカは、散らばった品が、家族の形見であることに気づいた。
「ヒメカに返したかった……」
震える指で、シュトバーンが林檎を差し出した。
「私達が奪ったものは、この商店街に流れたのだと知りました……。不幸になる前に、すべて…………」
ヒメカは林檎を振り払い、家族の形見すべてを抱えて、ゼロムのもとに戻ってきた。
そこで記憶は終わった。
『シュトバーンとは新たにつけた名。彼の本当の名はイシュト。人を殺め続けた彼も、ひとりの女性に愛されることで改心したんだ。そして、人を助ける旅に、ふたり一緒に』
再び差し出された手を取り、ヒメカは立ち上がった。
「どうなったの……?」
『愛する人は、イシュトをかばって死に、その時、彼は強く願ったんだね。自分自身の不幸を』
ヒメカの両目から、愛情に似た涙がポロリとこぼれ落ちそうになる。でも、上を向いて、涙は流さなかった。
ただ震える指を、爪を手のひらにたてた。
『先に、君にかけられた呪いを解く』
ゼロムはヒメカの額の前で、星を描いた。
すると、ヒメカの記憶の中の海賊の頭:イシュトの顔は朧気に戻った。
ゼロムはヒメカの荷物の中から、ドクロのネックレスを奪うと、イシュトの首にかけ、イシュトの傍らに転がっていた林檎を拾い、齧(かじ)った。
パチッとイシュトが目を開ける。
「シュトバーン!?」
『……イシュトと呼んであげて』
ヒメカがイシュトと呼ぶと、イシュトは幸せそうに笑った。
「私を不幸にしたのがあなたでよかった……」
その意味は、その時のヒメカにはわからなかった。
ただ、イシュトの命が蘇ったことを喜んだのだった。
◇
「ゼロムは、不幸を与えるんじゃないの?」
ヒメカは素朴な疑問をゼロムに投げかけた。
『幸せだけをあげられるわけない』
「……そうね」
『僕は旅に出るよ。同じ場所にいると、不幸が欲しい人がやってきたり、不幸と不幸が重なったり、そこで人が憎しみあったりするから』
「……ゼロム」
ヒメカもイシュトも、ゼロムを呼び止められなかった。
ただ、去ってゆくゼロムの背中に、イシュトが言った「ありがとうございます」が、とても淋し気だったのを覚えている。
◇
『人を愛するって難しいね』
澄んだ空を見上げ、ゼロムは言った。
『ヒメカはまだ知らないんだろうな。ずっと、これからもかもしれない……。イシュトが殺さなかった女子供の中に、ヒメカがいたこと。そのヒメカは子供ではなく、大人の女性だったこと。後々、イシュトが愛する女性で、イシュトをかばって死んだこと』
そして、とゼロムは続ける。
『ヒメカ、転生した先に彼がいてよかったね』
ゼロムは一度だけ、ふたりを振り返り、くすっと笑うと、またふたりとは別の道へと歩み始めた。
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