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ENTERANCE
うららかな春の日だった。柔らかな日差しの落ちるいつもの特等席で、黒猫はフガアとあくびをした。
ここ最近は、やたらと人間たちの出入りが多く、ろくに昼寝もできないほど騒がしかった。猫と違い、人間はあれやこれやと忙しい。朝から晩まで、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、休む暇もなさそうだ。そんなことだから季節の変化にも鈍感で、折々に大事な友人を訪ねることすら忘れてしまうのだ。
いつになく、黒猫は憂鬱だった。それというのも、物心がついたときから何かと食べものを持ってきてくれた、あの人間が久しく姿を現さないからだった。黒猫は最後に彼が置いていった宝物の上で、もぞもぞと体を動かした。長年の付き合いに免じて、勝手につけられた名前にさえ返事をしてやっていたというのに、まったく不義理なことだった。
路地の先に見える大通りには、車やトラックが忙しそうに走っていた。通り沿いに植えられた桜の、ピンク色をしたの花びらが、急ぐタイヤに巻き上げられ、ひらひらとこちらまで舞い込んでくる。
その一枚が鼻先にゆらり、落ちていくのを感じながら、黒猫はとろとろと目を閉じた。あの人間のことを忘れれば、暖かくて、静かで、とてもいい気持ちだった。ぱたり、しっぽを地面に落とす。体の力が抜けていく。心地よい眠りの中に落ちていく――と、そのとき、そのしっぽの先に激痛が走った。
「あっ、やだ、ごめん!」
声にならない声を上げて飛び上がると、慌てたような声が叫んだ。黒い毛皮を照らしていた心地よい日差しが、大きな影に遮られる。涙目で見上げると、一人の人間が心配そうに黒猫をのぞき込んでいた。大きな目をした女性だった。
「気づかなくってごめん、ごめんね、痛かった? 痛いよね、ほんとごめん、お詫びに……あ、そうだ」
彼女は一方的にまくし立てると、タタタ、どこかへ駆けていき、それから何かいい匂いをまとって戻ってくる。用心深く植え込みの下から顔を出すと、彼女はその鼻先にぽとりとその匂いのするものを落とした。黄色い、四角いかけらだった。
「チーズケーキに使う、チーズなんだけど……これで許してくれる?」
女性が申し訳なさそうに首をすくめる。
チーズと言ったらネズミの食べものじゃないか! そうは思ったが、裏腹に、口の中からは唾液が溢れてくる。
まあいいか。それでも用心を忘れずに、素早くチーズに食いつくと、人間の手の届かない場所、植え込みの下に潜り込んでむしゃむしゃと食べる。すぐに食べ終わり、振り向くと、彼女は笑ってもう一かけら、チーズを差し出した。なかなか気の利く人間だ。
「さっきのは、しっぽを踏んじゃったお詫び。それから、これは――」
言葉を待たずにチーズに飛びかかるが、それでも微笑みながら、彼女は続けた。
「これは、引っ越しソバならぬ、引っ越しチーズね。私、今日からこのビルに入ることになった桜井(さくらい)可奈(かな)っていいます」
可奈はきらきらした目を上げた。ふわりと吹いた春風に、ウェーブのかかった長い髪と、空色のスカートが舞い上がる。彼女の視線は、塗り立ての真っ白な壁にかかった看板に向けられていた。アーク第三ビルヂング、と書かれた小さな看板だ。下には、テナントの名前が入るべき空欄が四つ、並んでいる。その四階建てのビルを見上げ、よし、可奈は気合いを入れるような声を上げた。
「よろしくね、黒猫さん」
ニャオン、水色に霞む春の空にそびえるビルを見上げ、黒猫は鳴いた。こちらこそよろしく、そう言ったつもりだった。
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