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1F 桜井可奈
『さくらい、かなです。あおぐみです。好きな食べものはケーキです。しょうらい、なりたいものは、ケーキ屋さんです』
そのビデオに映った小さな女の子は、真っ直ぐな目でカメラを見つめながら、たどたどしくも一生懸命に将来の夢を語っていた。
『だから、おとなになったら、ケーキ屋さんになろうと思います』
『そうかあ、すてきな夢だね。可奈ちゃんは、どんなケーキ屋さんになりたいのかな?』
懐かしい声が、幼い可奈に質問をした。ビデオを撮っている、担任のたか子先生だ。可奈は優しいたか子先生が大好きだった。もちろん、怒った先生は怖かったけれど、それでもぴんと背筋を伸ばして可奈のために怒ってくれる先生の姿はかっこいいとさえ思っていた。大人になったいまも、背中を丸めたことがないのはそのせいだろう。姿勢がいいね、と褒められることは少なくない。
『えっとね、かわいいケーキ屋さん』
長いこと考えた末、幼い可奈が、恥ずかしそうに笑う。細く三つ編みにした髪を指でいじっている。恥ずかしがり屋の可奈ちゃん、そんな呼び名がふと記憶の底から蘇り、くすぐったいような思いがこみ上げてくる。
『かわいいケーキ屋さんかあ。じゃあ、先生も可奈ちゃんのかわいいケーキ屋さんに行って、ケーキ買ってもいい?』
『うん、いいよ。あのね、先生にはね、たくさんのお花のケーキあげる』
『お花のケーキ? わあ、楽しみだなあ。そしたら、先生食べに行くからね。約束だよ』
大好きな先生との約束にはにかむ可奈を残して、カメラは次の園児を捉える。
『えがわ、みきです。あおぐみです。好きな食べものは、イチゴです――』
仲が良かった友達の幼い姿に、可奈は思わず微笑んだ。このビデオは、卒園式の前に撮られた園児たちの将来の夢だった。男の子なら、トラック運転手や警察官、女の子ならお花屋さんやケーキ屋さんが、夢の多数を占めたものだ。子供に想像できる未来というのは、そんなに多くなかったのだろう。
次の男の子が警察官になりたいと言っているところで、可奈はビデオを止め、今度は手元の文集を開いた。小学校から中学、そして高校のときのものだ。どの文集にも将来の夢という項目がある。可奈はそこに書かれた自分の夢を、そうっと指先でなぞった。小学校時代のへたくそな文字が、中学生のときの丸文字が、それから高校の時の少し大人びた文字が、それぞれ同じ夢を記している。
年齢によって表現は違うが、それはまったく同じ夢――ケーキ屋さんになること、だった。そしていま、幼い頃からの可奈の夢は、叶おうとしていた。『Cake shop・さくら』、できあがったばかりの名刺を天井にかざして、可奈は何度目かの嘆息を漏らした。
高校を卒業後、製菓専門学校へ通い、東京の店で修行しながら開業資金を貯めた。まだまだ修行も資金も足りない、自分でもそう感じていたにも関わらず、運命は訪れてしまったのだ。あの特別なビル、アーク第三ビルヂングと――。
しばしの夢想から我に返って、可奈はベッドの上の文集を棚に戻した。夢にまで見たオープンは、いよいよあさってだ。まだやらなければいけないことはたくさんある。そうだ、あの猫に煮干しも持って行く約束もしたんだった、可奈は目を閉じると、眠りの中へ吸い込まれていった。
✿
翌朝、せっかく煮干しを持ってきたというのに、あの黒猫はいなかった。
「猫ちゃん?」
名前を呼ぼうにも、名前を知らないので、小声でそう呼んだ。しかし、猫は現れない。
「……ここの猫じゃないのかな」
少し考えてから、手の煮干しを植え込みの下に置く。猫が来たら食べるだろう。
早朝の空気はまだ冬のように冷たかった。ビルのオーナーの奥さんから渡された、船の舵を模したキーホルダーのついた鍵でエントランスを開けると、ペンキの匂いと、澱んだ古いビルの匂いがした。それも店がオープンして、人の出入りが活発になればすぐに消えるだろう。
アーク第三ビルヂングは、少々変わった造りになっていた。天窓からの光が差すエントランスを入ると、奥の幅の広い階段が目に入る。エレベーターはない。少し、左に目を移すと、そこはエントランスから見通せる半地下のスペースになっており、二階のテナントスペースは階段をぐるりと上がった、そこの真上の空間となっている。可奈はいつものように階段をゆっくりと上った。
二階から四階までのスペースは、いまは空っぽで、ガラスの扉から見通す店の中には段ボールが積み上げられている。さらに上ると、ビル全体に光を通している大きな天窓があり、店舗スペースであるべき場所は、屋上になっている。そこには、ガラス扉の代わりに鍵のかかったスチール扉がついていて、店子であってもここは立ち入り禁止となっており、鍵も渡されてはいない。
可奈は毎朝、この屋上の扉の前まで足を運び、天窓から空を見ると、Uターンして一階まで降りることを繰り返していた。ここから自分の夢がスタートするんだ、というわくわくした気持ちがそうさせているのだろう。カツン、カツン、小気味よい音が無人のビルに響く。
築六十年という、なかなか古いビルではあったが、オーナー自らがデザインを手がけたというリノベーションのおかげで、古さは全く感じられなかった。
真っ白な壁に、黒みがかった焦げ茶色に塗られた梁は、まるで大きな古民家のようでもあり、それでいてどこか洋風のスタイリッシュさも感じさせる。その上、立地も良く、さらにオーナーの計らいで家賃も格安となれば、テナント募集に申し込みが殺到したという話もうなずける。
何百分の一という難関をくぐり抜けることが出来た幸運に、可奈は改めて感謝した。若い人の夢を応援したいというオーナーの意向があったとはいえ、普通に考えて、誰が何の実績もない、二十五という若い女の子にチャンスを与えようだなんて思うだろう。
それに可奈が提出した経営計画書、経歴やイメージ図、自分で言うのも恥ずかしいが、どれもつたないものだった。敢えて他の人よりも勝っているものはと言えば、夢にかけた情熱くらいだろう。けれど、情熱なんてものはいくらあってもお金にならないことくらい、可奈も知っている。
ともあれ、幸運な可奈が借りることができたのは、一階エントランスの一部と、そこから見通せる半地下になったスペースであった。エントランスにはケーキを並べるショーケースを置き、半地下のスペースはイート・イン用に小さな木製の机と椅子を並べ、飲み物と一緒にケーキを楽しんでもらえるようになっている。ケーキを作る作業場は、そのカウンターの奥だ。
そこで可奈はケーキを作る。お誕生日、そのほかのお祝い事や、普段とは違う、特別な日に食べる甘くて幸せなデザートである、ケーキ。そんな特別な日に彩りを添えるのが、可奈の仕事なのである。
よし、作業場の銀色のテーブルの前で気合いを入れ、可奈はいよいよ明日の仕込みに取りかかった。
仕込みといっても、まさかいまから生菓子であるケーキを作るわけにもいかない。ケーキを焼くのは、準備を終えて一度家に寝に戻り、早朝から開店の十一時までだ。
ショーケースに並べるケーキの種類は、いまのところ全部で十種類を考えていた。
定番のショートケーキとチョコレートケーキ、それからスフレ、ベイクド、レアの三種のチーズケーキ、シフォンケーキはプレーンと抹茶の二種類、宝石のようなベリーの乗ったタルト、苦みのきいたモカケーキ、最後は月ごとに変える予定の、季節の限定ケーキ。
当面の間、お手伝い程度のバイトは頼んでも、本格的に人を雇うような余裕はない。これが可奈一人で用意することができる、ぎりぎりの量である。ケーキを焼くだけでなく、イート・インで出す飲み物の用意もしなければならないし、手は幾つあっても足りないくらいだ。
可奈は冷蔵庫からアーモンドプードルと粉糖取り出すと、ボールで練り合わせ、そこにつまようじの先に乗せた微量の食紅で色をつけた。どんどんこねていくと、白かった生地はほんのり美しいピンク色になる。
マジパンと呼ばれるこの生地は、クリスマスケーキの上に乗っているサンタさんをつくるもの、と言えば、誰でも心当たりはあるだろう。砂糖人形を作る材料だ。
可奈はそれを平たくのばし、クッキー型でくりぬく。そして端をナイフでV字に切り取ると、細い麺棒に巻き付けるようにして丸みを与える。できあがったのは、可愛らしい桜の花びらだ。その作業を黙々と繰り返す。
四月の限定ケーキは、この桜の花びらをあしらったものにする予定だった。丸くくりぬいたスポンジの間には甘酸っぱいさくらんぼムースを挟んで、円筒形の仕上がりにする。全体を覆う生クリームも淡いピンク色だ。
限定ケーキは、他のケーキに比べると手間もかかる上に、原価率は高めで、開店早々の懐には少々痛い。けれど、可奈はどうしてもこのケーキを店に出したい理由があった。
四月は新しいことが始まる月。自分自身も含め、新生活に飛び込んでいく人たちを応援するような、そんなケーキを作りたかったからだ。
本当は、花びらはマジパンでなく、飴細工で作ろうかとも考えたのだが、さすがにそれは大変なので諦めた。
ウエディングケーキなどのデコレーションにも使われる飴細工の花は、ガラスのように繊細で美しいのだが、煮えたぎった飴を練り、熱いうちに加工していくには、相当の鍛錬が必要だ。もちろん、熟練した職人ともなれば、作業を繰り返すうちに手の皮も厚くなり、熱さなど感じないというのだが、残念ながら可奈はまだその領域に達していない。
美しい飴細工は今後にとっておくとして、いまはひたすらマジパンの花びらに集中した。この一枚一枚が、このケーキを選んでくれた誰かに幸せを届けるのだ、そんな思いを込めて作業を続ける。集中していると、時間は瞬く間に過ぎていく。ふと時計と見ると、お昼の時間をとっくに過ぎていた。作業台の上には、十分な枚数の花びらがずらりと並んでいる。
「よし」
息をつくように独り言を言って、エプロンの腰に手を当てる。人気のないビルは、相変わらず、しん、としている。
「あとはご飯を食べてからにしようかな」
エプロンをほどきかけたときだった。キイ、エントランスのドアが軋む音がして、コツン、誰かの足音が聞こえた。
誰だろう。反射的に考えるが、店はどこもオープンしていないのだ、客ではなく、まだ会ったことのない、他のテナントの誰かに違いない。
それならこのビルで一緒にやっていくことになるお隣さんだ。挨拶しなくっちゃ、可奈は慌ててカウンターの中からエントランスを見上げる。
その誰かは、エントランスに一歩踏み込んだまま、じっとそこに立ち尽くしているようだった。何かに戸惑っているわけではなく、きっと初めて自分の店を持つ感慨にふけっているのだろう。覚えのある感覚に、可奈は口元を緩めた。ここが私の出発点になるんだ、初めてこのビルを訪れた日に、可奈もそんな気持ちで胸を一杯にしたのだ。可奈は彼の邪魔をしないように、自然と息を潜めた。
天窓からの光が降り注ぐそこに立っている人は、男性だった。それも可奈と同じくらいの若い男だ。背が高く細身で、顔はよく見えないが、少なくとも整った形のいい鼻をしている。長めのまつげが瞬いた。どきり、仕事一筋で長らく感じたことのないときめきのようなものが胸を揺さぶろうとした。そのときだった。
「……くっせえ」
男はぼそっとつぶやくと、さっさと階段を上っていく。ややあって、バタン、どこかのドアが閉まる音がした。
くさい? 何が?
可奈は思わず服に鼻をつけた。多少汗をかいたとはいえ、香るのは柔軟剤の匂いで、断じて汗の臭いではない。それに、作業場にはマジパンに入れた大量の粉糖の甘い匂いは漂っているものの、くさいと言われるような種類の匂いではない。いや、もしもこの匂いが「くさい」なら、この場所でケーキ屋をやること自体が無理だろう。
「くさいって、どういうことよ」
思わず低い声でつぶやく。向こうは可奈がいることに気づかなかったのかもしれないが、これではケンカを売られたも同然だ。一言嫌みでも言ってやりたいような衝動に駆られる。しかし、それも一瞬だけで、すぐにその衝動は空気が抜けたようにしぼんでしまった。元々、他人に堂々と抗議できるような強気な性格ではないのだ。
「何階の人だろう……」
文句を言いに行くよりは、何も聞かなかったふりをして挨拶に行く方が今後のためだ。可奈はエントランスから、上を見上げた。
二階、三階、四階、どの店舗のドアも固く閉まっていて、一見、出入りのあった様子はない。けれど、どこかの階に先ほどの男がいるはずである。ドアのガラスをのぞき込みながら、可奈は上へと上がっていった。
いつものように段ボール箱の並んだ二階、その二階よりさらにうずたかく荷物の積まれた三階、初めからガラスに目隠しの布が貼られている四階――。
二階と三階に人の気配はなかった。残る可能性は、この四階だ。可奈は中の見えないドアの向こうをうかがった。しばらくそうしていたが、自分の少し早い鼓動と息づかいしか聞こえない。やはり、可奈の他は誰もいないんじゃないかというくらい、ビルの中はしいんと静まりかえっている。
けど、あの人が入っていくとしたらここしかないわ、可奈は心を決めて、ドアをノックした。
「こんにちは」
トントン、もう一度。
「こんにちは、私、明日からケーキショップを開く桜井と言いますけど、ちょっとご挨拶に……」
耳を澄ませる。やはり、物音は何も聞こえない。いまのさっきで、手が離せない状態とも考えにくいし、だとしても、すいませんいま出られなくて、とか何とか言うことくらいできるだろう。それとも、さっきの台詞を聞かれたことが恥ずかしくて出てこられないとでも言うのだろうか。
何にしても私のことを馬鹿にしてるのね、可奈は返事のないドアに踵を返した。一瞬、恋に落ちかけた自分が腹立たしい。怒りながら階段を降りていると、ぎゅーと大きな音でお腹が鳴った。そういえばお昼がまだだった。
オープンしたらお昼ご飯をゆっくり食べることもできないかもしれない、それなら今日は牛丼特盛りだ! 可奈はコートを羽織ると外へ飛び出した。彼女が出て行くと、ビルは再び静まりかえった。
✿
現金なもので、お腹がいっぱいになると、あの四階に入ったらしい失礼な男のことは、可奈の頭からさっぱりと抜け落ちていた。それでなくても、念願の店がオープンするのだ。そんな男のことなどいつまでも考えている方が難しかったかもしれない。
準備に追われながらの、いよいよオープン当日。感慨にふける余裕もなく、可奈は早朝からケーキの仕込みに忙しく働いていた。
「可奈先輩、アイスティーのグラスって、ここに並べてあるのでいいですか?」
製菓学校時代の後輩で、今日から手伝いを頼んだ古屋(ふるや)優子(ゆうこ)がカウンターからひょこっと顔を出す。彼女は東京の有名店「フルーレ」でパティシエとして働いていたのだが、倒れた父親の介護のため、地元に帰っての求職活動中で、そのつなぎの期間、可奈の店でアルバイトをすることになったのだった。
「先輩はよしてよ。学校じゃないんだから」
可奈は軽く優子をにらんだ。父親の病状が安定しないため、彼女は普通の店で普通の働き方をすることが難しかった。あの「フルーレ」で働いていたのだ。技術なら優子の方が一枚も二枚も上だろう。可奈の苦手な飴細工も、ヨーロッパのコンテストで入賞を経験しているはずだ。
「冷たい系の飲み物は、全部こっちのトールのグラス。小さいのは、お冷や専用ね」
「了解です。ホットはカップ&ソーサーですね」
「そうそう。イート・インのご注文は私が担当するから、優子ちゃんはあんまり出番がないかもしれないけど、物の場所だけ把握しておいて。もしかしたら、ってことがあるかもしれないから」
はい、優子が再び元気のいい返事で答える。好きな仕事から離れざるを得なくなったのだ。辛いだろうに、そんな気持ちはおくびにも見せない。ねたみや苦しみなど寄せつけない強さがある。
思えば、製菓学校のころから彼女はそうだった。姿勢が良く、動作もてきぱきしていて気持ちがいい。先輩後輩関係なく、言うことはきちんと言う。女子の多い学校では、そんな性格を嫌う者もたくさんいたが、可奈はそんな彼女のことを好ましく思っていた。それを察してか、彼女も可奈を慕ってくれた。
「……それにしても先輩、変わりませんよね」
できあがったケーキをトレーに慎重に並べていると、優子がくすぐったそうな笑みを浮かべた。
「先輩はよしてって言ってるのに」
「すいません」
「別に謝らなくてもいいってば」
「じゃあ、謝りません……って、冗談ですよ。あ、変わらないってのは、冗談じゃないですけど」
いらずらっぽい子犬のような瞳がのぞき込む。可奈は大げさにため息をついた。
「優子ちゃん、もう二十五だよ、私。もうそろそろアラサーだよ。二十歳の頃とは全然違うよ」
「二十五でアラサーって言ったら、ほんとのアラサーの人が怒りますよ」
優子は笑って肩をすくめた。
「いや、でも変わらないって年齢とかじゃなくて、先輩……じゃなくて、可奈さんはずっと可奈さんのままだったんだなあって、何だか嬉しくって」
「何それ」
「その人らしさってあるじゃないですか。見た目とか、年齢じゃなくて、雰囲気みたいなっていうんですかね? だから、この間久しぶりに見たときも、すぐ先輩だってわかりましたもん。懐かしいなって」
「そう? でも、そんなこと言って、優子ちゃんも全然変わらないよ。何かびしっと芯が通ってるような感じが、昔と同じ。あと姿勢がいいとことか」
「そうですか?」
優子は照れたように頬を赤くして、それからショーケースの中のケーキを覗くように、少し首をかしげた。
「でも、いまこんなこと告白するタイミングかわからないですけど、それって先輩の真似だったんですよ」
「どういうこと?」
「私、別に姿勢なんて気にしたことなかったんですよ。だけど、学校で先輩の姿を見かけて……姿勢が良くて、凜としてるって言うか、すごくかっこいいなと思って、それで真似してたんです」
「ほんと?」
思わず手を止めて聞き返す。
「こんなことで嘘ついてどうするんですか」
「それはそうだけど」
そう言ってから、可奈は思わず笑みをこぼした。自分が背筋を伸ばしている理由、それもやはり人の真似だったことを思い出したからだ。幼い日の可奈の目にかっこよく映った、先生の――。
「実は、私もね」
そう言いかけたときだった。エントランスのドアが開く気配がして、すみません、声がした。懐かしい顔がそこにあった。
「すいません、十一時からで……」
「あ、優子ちゃん、いいの」
言いかける優子を制して、可奈は小走りにその人に駆け寄った。
「可奈ちゃん?」
「もしかしてミキちゃんだよね?」
「久しぶり、江川美紀よ。いまは苗字が変わって河田だけど。チラシを見かけて、もしかしてって思って。やっぱり可奈ちゃんだった。成人式のとき以来? ほら、健人、ちゃんと出てきてあいさつして」
こんにちは、は? と美紀が母親の声で、コアラのように足にしがみついた子供に言う。
「……こんにちは」
男の子はおっかなびっくりそう言うと、すぐに母親の後ろに隠れてしまう。こんにちは、可奈は微笑んだ。
「可愛いね、そっか、結婚したんだおめでとう」
「みどり幼稚園に通ってるの」
「地元だもんね。そっかあ、もうそんな年なんだね、おばさんになるわけだ」
一生懸命に隠れようとする割には、ちらちらとこちらを見る子供に、感慨深く可奈はつぶやいた。
「たか子先生は、元気? こないだね、ビデオ見てたの。ほら、卒園式のときの。それで、思い出しててね……」
背筋をぴんと伸ばした先生の姿が、不意に胸に浮かぶ。優子が可奈を真似したというように、可奈はたか子先生の姿勢を真似したのだ。
「そうだ、落ち着いたら、一度先生にケーキを持っていかなくっちゃ。ビデオの中で、私、先生の約束してたの」
けれど、先生の名前を出した途端、美紀の顔は曇った。
「どうしたの? 先生、幼稚園辞めちゃったの?」
たか子先生は、園長先生の奥さんだった。だから、たか子先生が園を辞めたということは、園長先生と離婚したということになる。
「あ、違うのよ。園にはいらっしゃるんだけど……」
「そうなの?」
それなら、どうして美紀は暗い顔をするのだろう。その答えはすぐに彼女の口から発せられた。
「先生ね、最近出ていらっしゃらないの。すごく痩せてしまって、お母さんたちの噂じゃ、病気……ううん、ガンなんじゃないかって」
「うそ」
お花のケーキ、先生にあげるね。ビデオの中の幼い可奈の声が、突然耳の奥にこだました。
✿
その日の夕方、念願の店がオープンし、イート・インスペースは満席、あれだけ用意したケーキも売り切れるほどの客が押し寄せたというのに、可奈はどこか上の空だった。原因はもちろん、たか子先生の病気だ。あんなに元気だった先生がどうして、そう思ったかと思えば、あんなに小さい女の子だった可奈が大人になったのだ、先生もいつまでも元気でいるわけもない、そんな考えが押し寄せる。
「先輩、大丈夫ですか?」
最後の一切れが売れた午後六時、見かねたように優子が言った。
「大丈夫、大丈夫。これから明日の仕込みもしなくちゃならないし」
「でもそんな顔色じゃないですよ」
「大丈夫だから、そんなに心配しないで。それに優子ちゃんも今日は疲れたでしょ? ゆっくりして、明日は開店前に来てくれればいいから」
「……あの、幼稚園の先生って人のことですか?」
「聞いてたの?」
「聞こえました」
悪びれる風なく、優子が言う。誰もいないエントランスでの会話は、聞き耳を立てなくても自然に耳に入ってしまうだろう。だとしても、聞いていない、そう嘘をつかれるよりはずっといい気がした。
「そうなの」
ショーケースの電気を消して、ため息をついた。昼間のざわめきの消えたビルに、可奈の声だけが静かに響いた。
「私、ずっとケーキ屋さんになりたかったの。ずっと、幼稚園の頃から」
「はい」
優子の声も小さく響く。可奈は黙って階段を降りると、カウンターで熱い紅茶を二人分淹れた。そしてその湯気の立つカップを客席のテーブルに置いた。
まだ落ちきらない夕方の淡い光が、天窓から落ちていた。あそこから月の光が落ちたらきれいだろうな、そう思いながら紅茶をすすった。
「小さい頃って、大きくなったら何になりたいって聞かれたら、女の子ならみんなケーキ屋さんかお花屋さんになりたいって答えるのね。だからそんな夢、聞き慣れてるはずなのに、たか子先生はすごいねって、ちゃんと私の目を見て、先生も可奈ちゃんのケーキ屋さん行ってもいいかなって。私はいいよって、お花のケーキを先生にあげるねって」
何も言わずに、優子はじっと話に耳を傾けている。伏せたまつげが優しく瞬く。
「昼間、優子ちゃんが私の姿勢を褒めてくれたでしょ。背筋が真っ直ぐしてて、かっこいいって。でも、それって私じゃないの。私はたか子先生を真似しただけなの。だから、先生はずっと私の心の中にいて、っていうか……でも」
支離滅裂になっていく言葉に歯止めがきかないまま、続ける。
「でも、そんなのおかしいよね、別に私も卒園してからずっと先生のことを考えてたわけじゃないし、昔のビデオを見て懐かしくなっただけで、それまで先生のことは忘れてたわけだし。それなのに、たまたまガンだって聞いたからって、こんなに感情的にならなくてもいいんじゃないかなって、自分でも思うんだけど……」
変だよね、笑い飛ばすように言って、顔を上げる。しかし目に映った彼女の顔は、どきっとするほど、笑みのひとかけらも浮かんではいなかった。
「別に、変じゃないですよ」
優子は揺れる液面に何かが見えるとでもいうように、カップの中をじっと見つめたまま言った。
「毎日、恋人みたいにその人のことを考えられなくても、大切な人っていうのはいると思います。それも、先輩に姿勢を教えてくれた人なら、気づかなくてもずっと心の中にいたんだと思います」
そして、小さく付け加えるように言った。
「先輩は、その先生にお店に来てもらいたかったんですよね」
「優子ちゃん……」
悲しみの一番奥、芯の部分を言い当てられたような気がして、可奈はこみ上げてくるものをぐっと飲み込んだ。
優子の言うとおり、心のどこかで、可奈は先生が来てくれるんじゃないかと期待をしていた。あのときの小さな可奈が、胸の中で先生を待っていた。先生がお店に来てくれるのを、可奈の作ったお花のケーキを食べてくれるのを、そしておいしいよ、そう笑顔で言ってくれるのを。
マジパンで作った桜を乗せたケーキは、自分でも無意識でありながら、そんな気持ちを込めてデザインしていたのかもしれない。けれど、病気になってしまった先生は来ない。可奈のお花のケーキを食べに来てくれることはない。
「優子ちゃん、お願いがあるんだけど」
定休日に教えて欲しいことがある、そう言うと、優子は拍子抜けするくらいあっさりと頷いた。
「先輩も、初日から根を詰めすぎないでくださいよ」
「わかってる。じゃ、今度の月曜、よろしくね」
「了解です」
そういえば、父親が倒れたことが原因で優子は帰ってきたのだった。だから、彼女は大切な人を亡くすかもしれないという恐怖をよく知っているのかもしれない。
そんな考えがふと浮かんだのは、今日も病院に寄っていくという優子の後ろ姿を見送って、明日の仕込みを始めたときだった。
✿
それから一週間後の、定休日の午後。可奈はみどり幼稚園の門扉の前に立っていた。その手には普段はしない手袋をはめ、大きな箱を抱えている。早朝から優子に手伝ってもらいながら仕上げた力作だ。
幼稚園児たちは、お昼寝中なのだろうか、園庭には誰の姿もない。黙って入っていいものかと思案していると、その姿に気づいた若い先生が近づいてきた。
「あの、私、みどり幼稚園の卒園生で……あ、いまはこういうことを……」
名刺を渡しながら、緊張して声が裏返った。
「もしかしたら、たか子先生にお目にかかれないかな、と思って……あ、園長先生でもいいんですけど」
病状が重ければ、入院しているかもしれない。そんな可能性が頭を掠める。しかし、それは杞憂のようだった。
「たか子先生は、おうちの方にいらっしゃいます。どうぞ」
もしかしたら可奈よりも若いその先生は、にっこり笑って幼稚園に隣接した一軒家を指す。一軒家とはいっても、幼稚園の合宿にも使われるそれは大きく、個人の家という雰囲気はない。
その隅に小さく設けられた玄関ドアを、可奈は叩いた。園に通っていた子供の頃は、園庭に面した縁側から直接上がり込んでいた。玄関の前に立つのは、これが初めてかもしれない。
はい、中から応える声がして、思ったよりも早くドアが開いた。記憶よりもずっとやせて小さくなったたか子先生がそこにいた。
「あ、あの……」
心の準備はできていたはずだったが、その瞬間になってみると、やはり懐かしさと同時に心が痛いような感情がこみ上げた。たか子先生、一言そう呼ぶのも、苦しいような気がした。年と病気で小さくなった先生を前にすると、そんなことがあり得ないことくらいわかってはいるが、自分は大人になるためにこの人の養分を奪ってしまったんじゃないかというような気さえした。
「可奈ちゃん?」
驚いたことに、たか子先生は可奈の名前を優しく呼んだ。
「可奈ちゃんでしょう? ね?」
「は、はい。桜井可奈です」
うん、そうだよ。小さかったあの頃に戻って、そんなふうに甘えてみたい気持ちを抑えて、可奈は答えた。こんなに年老いても、びしっと背筋を伸ばしている先生の前で、私も大人になったんだよ、言葉ではなくそう伝えたかった。私がこうして背筋を伸ばしているのは、先生を見てかっこいいなって思ったからなんだよ、と。
小さくなってしまったたか子先生は、わかってるよ、可奈の心の声に答えるように、優しい目をしていた。
「先生、私はこの間、自分のケーキショップを開いたんです」
「ええ、おいしいケーキ屋さんができたって、可奈ちゃんのお店のことだったのね。忙しくて行けなくて、ごめんね」
「いいんです」
可奈は手の箱を差し出した。無理矢理でもいい、自分にそう言い聞かせて笑顔を作った。
「今日は、先生に食べてもらおうと思って、ケーキ作ってきたんです」
「あら、そうなの。わざわざありがとう。こんなところじゃ何だから、上がってちょうだい」
お邪魔します、そう言って先生のあとをついて行くと、園庭を見渡せる座敷に案内された。
「ここでお泊まりしたでしょ、懐かしいわね」
「いまも、お泊まりするんですか?」
「そうよ、いまも昔もおんなじね」
お昼寝を終えたのか、数人の園児たちが元気よく外へ飛び出してくる。二十年前の自分の姿が重なる。
「あ、お客さんだ」
めざとい園児が可奈を見つけ、駆け寄ってくる。
「こんにちは! 誰ですか?」
真っ直ぐな瞳に思わず微笑むと、先生は縁側の窓を開けた。
「この人はね、裕太くんの先輩よ。ずっとずーっと前に、ここの幼稚園を卒園したの」
「えー、じゃあ、子供だったころ?」
「そう、子供だったころね」
「いまは大人になったの?」
「お姉さんは、何歳ですか?」
「お名前は?」
たちまち縁側にむらがった園児たちが、次々に質問を浴びせかける。
「何で来たの? また幼稚園に入るの?」
「大人はだめなんだよ。子供しかだめ」
「でも先生はいいんだよ、じゃあ先生なの?」
可奈はたか子先生と目を合わせて微笑んだ。そして咳払いをすると、大きな声で聞いた。
「じゃあ、お姉さんから質問。みんなが将来なりたいものは何ですか?」
えーっ、楽しげな悲鳴が上がる。
「オレ、車の運転手!」
「車掌さん!」
「お花屋さん!」
「お菓子屋さん!」
「ケーキ屋さん!」
「このお姉さんはね、みんなくらいのときにケーキ屋さんになりたかったんだよ」
たか子先生が言う。
「それでね、頑張ってケーキ屋さんになったの」
「うそ! すっげえ」
「いいなあ、ケーキ屋さん」
「あ! ねえ、じゃあそれ、なあに?」
机の上の大きな箱に気がついた女の子が、大きな目をさらに大きく開く。
「何かな。開けてみようか……」
可奈は園児たちにも見えるように、箱を縁側へ移した。そして、ゆっくりと蓋を開く。
「可奈ちゃん、これ……」
それが何なのか、いち早く理解したたか子先生が息をのんだ。
「すごくきれい……」
箱から姿を現したそれは、一見、花束のように見えた。赤、白、ピンク、紫、色とりどりの美しい花が、光沢のないマジパンとは違い、ガラスのような輝きで咲き誇っている。可奈は手袋の中の手をぎゅっと握りしめた。
それは可奈が優子に教わって作った、飴細工の花だった。美しい光沢を出すため、熱い飴を丹念に練り、一枚一枚の花びらを薄く形作ったものだ。慣れない作業をしたおかげで両手は火傷でぼろぼろだったが、どうやらその甲斐はあったようだった。
「わあ、きれい……」
「お花だ」
「ケーキだよ」
「お花のケーキだ!」
男の子が叫ぶと、園はお祭りのような騒ぎになった。ケーキを一目見ようと、園児だけではなく、先生たちも集まってくる。その顔はみんな笑顔に満ちている。
「お花のケーキあげるって先生に言ったの、覚えてました?」
大騒ぎの中、こっそりと聞く。
「もちろんよ。ありがとう、可奈ちゃん」
たか子先生の目には、心なしか涙が浮かんでいる。可奈も涙が溢れそうになるのを、えへへ、と幼いあの日のような照れ笑いでごまかした。
✿
「じゃあ喜んでもらえたんですね、よかった」
客の途切れた夕方、幼稚園での出来事を報告すると、優子はほっとしたような笑顔を見せた。
「突然飴細工を教えてくれだなんて言われたから、内心ドキドキしてましたよ。でもうまくいってよかったです。私も、ブランクがあったし……それに」
「それに?」
「それに、先輩、思ったよりも初歩的なところで止まってるって言うか……」
「言ったわね」
カウンターに肘をつき、可奈がぷっと頬を膨らます。
「だから教えてもらったんじゃない」
「いや、でも最後の方の花は結構きれいにできてましたから、あとは練習あるのみですね!」
慌てたように言う。
「それはありがとうございます、先生」
「先輩!」
「冗談よ、冗談」
可奈は笑って、軽く息を吐いた。
「……でもケーキを食べてもらえて、本当によかった」
「そうですね」
カウンターの中でコップについた水滴を拭いながら、優子が答える。
自らの病気について、たか子先生は一言も触れることはなかった。ただ慣れた手つきでケーキを切り分ける可奈を、その一切れを心待ちにする園児たちの顔を目に焼き付けるようにして眺めていた。それは自分の命が長くないことに納得し、受け入れようとする人間の目だった。何度も目頭に熱いものがこみ上げるのを、可奈はじっと我慢した。
『いただきまあす!』
大合唱でそう言うと、園児たちは夢中でケーキを食べた。おいしいひとかけらがその口に詰まっている間だけ、ほんの僅かな沈黙が訪れ、たか子先生の「おいしい」という穏やかな声音が可奈の心に刻まれた。「おいしい」、先生のその言葉は、いままで夢に向かって頑張ってきた可奈への、一番のご褒美であるような気がした。
「ケーキって特別なものじゃない? だから私ね、ここのケーキをそんな特別な日に食べてもらえたらなって思ってたの。でもね――」
独り言のような言葉に、優子は耳を傾けている。可奈は続けた。
「でもね、たか子先生にケーキを持っていって、食べてもらって……私、もっと欲張りなこと思うようになっちゃったんだ」
「欲張り、ですか?」
「うん」
可奈はエントランスのショーケースに少なくなったケーキを見上げるように、視線を上げた。
「特別な日だから、ここのケーキを買うっていうんじゃなくて、そうじゃなくて……」
終わりかけの桜がひらひらと、この半地下まで吹き込んでくる。花が散れば、桜は青々とした芽を吹き、強い日差しと共に新緑の季節がやってくるのだろう。
「何でもない日でも、ここのケーキを買う日が特別な日になる――そんな魔法みたいな力をケーキに込められたらいいなって、そう思ったの」
「……そうですね」
微かに優子の微笑む気配がした。
「できますよ、先輩なら」
「……うん」
新たな決意を胸に、可奈は頷いた。
アーク第三ビルヂング内、ケーキショップさくら。訪れる人が笑顔になれるように、私はここでケーキを作り続けよう、可奈はいつものように背筋を伸ばして立ち上がった。
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