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そしてチェスの手を止めると、少し大袈裟なくらいの手振りを付けて説明する。
「櫛はね、祝言を誓った相手に男が贈るものなんだ。『苦死』という当て字から『苦労も幸せも共に過ごし、死ぬまで添い遂げよう』っていう意味がある」
「へぇー、そんな風習があったんですね」
(エンゲージリングみたいな感じかな?)
未来では『苦死』という当て字から、贈り物にはあまり良くないとされている櫛だが、ここでは逆にロマンチックな贈り物だったらしい。
なるほど、稔磨が異常に戸惑っていた理由が分かった。
「つまりね、櫛を贈らないってことは暗に、君と一生を添い遂げるつもりはない、と言っているようなものなんだよ。まったくこの不精者め」
伊藤はここぞとばかりに冗談めいた口調で、稔磨に追い打ちをかける。
冗談とはいえ、それを否定しない訳にはいかない。
稔磨は伊藤を睨み付ける。
「それは違う!」
「分かっていますよ。櫛というのはただの証でしょう?証などなくても、私は稔磨さんのことを疑ったことはありません。もちろん私は最期までを共にするつもりですし、来世でもお逢いするつもりです」
女子としては稀有であるが、紗恵は感情の代用品としての物に、重要な価値を見出す性格ではなかった。
婚約した男女が交わすエンゲージリングもその始まりは、もし寡婦になってもお金に困らないようにと換金目的で贈られるものだったというから、物事はすべて合理的思考に基づいているのだ。
稔磨は紗恵の寛容な言葉にほっとした表情を見せた。
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