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十
その日の夜、午後11時を過ぎたころ、美名は自室のベッドに入り、部屋の暗い天井を眺めていた。少し弱くはなったものの、雨はまだ振り続けていた。たまに表の道路を通る自動車のベッドライトが、水しぶきの音を伴いながらマンションの3階まで届いて、カーテンの隙間から直線に伸びた細い光が天井を切り取るように移動して行く。
母の真子が、城岡唯介と再婚したのは、美名が5才のころだった。
「ママのおともだち」という名目で唯介を紹介された日のことを、今でも覚えている。美名も兄の宏司も、そのおじさんがただ「ママのおともだち」などではないことは、子供ながらにすぐに承知した。
唯介は背の低い美名の前にしゃがんで笑顔になると、「こんにちは」と言った。
美名もいちおう、「こんにちは」と遠慮がちに返事をした。
すると唯介は美名の頭に手を乗せて、軽く撫でた。
「ずいぶんと馴れ馴れしいおじさんだな」というのが初対面での印象だった。
真子は美名が小学校に上がると同時に、それまでパートタイムだった病院の仕事を、夜勤もあるフルタイムに切り替えて再び働き始めた。具体的に聞いたことはないのだが、おそらく真子の勤務する病院に患者としてやってきたというのが、真子と唯介の馴れ初めなのだろう。
真子は言うまでもなく、いわゆるバツイチだったが、唯介には婚歴はない。
実の父とは、幼稚園に上がる前に離れてしまったため、まったく記憶にない。一度も面会交流をしたこともない。
唯介と再婚する前、母は機嫌が悪いときに前の夫である男について悪口を言っていた。美名にとって実父について知ってることは、それだけだった。3歳年上の宏司は実父について覚えていることもあるようたが、「怖い人だった」以外の情報は出てきたことがない。おそらく兄もあまり強くは記憶に残っていないのだろう。
真子は間もなく「ママのおともだち」である唯介と再婚して、その後購入したのが、今住んでいるこのマンションだった。5階建てでワンフロアには4室だけの、小ぶりな分譲マンション。唯介が独身のときに貯めていた預金を頭金にしてローンを組んだと、一度だけ聞いたことがある。
マンションは今年でちょうど築10年になる。
ここに引っ越してきたころの城岡家は、希望に満ち満ちていた。
宏司も美名も、新たに父となった唯介とは、それなりに良好な関係を築くことができていた。特に実父についてまったく知らない美名にとっては、父という単語はすなわち唯介のみを指す意味を持っていた。新婚の真子と唯介の夫婦仲も良かった。
真子は看護師として平均的なサラリーマンほどの稼ぎがある一方で破壊的に家事が苦手。唯介のほうは。中堅食品会社の営業として勤務しているが、気が弱い上に人とコミュニケーションを取るのがあまり上手でなく、そもそも営業という仕事に向いていないと強く感じていた。夫婦が専業主夫という家族の形を選択するのに、世間体以外に障害となるものは何もなかった。
新築マンションの同じフロアには、同い年の吉田聖羅という女の子がいて、すぐに仲良くなった。毎朝、一緒に学校に行き、自宅に帰ると聖羅や兄、新たに出来た父と遊んで、とても楽しかった。
月に一回くらいは、家族揃ってレジャーに出かけた。春には花見に行ったし、夏には海や花火大会に行った。何度か、吉田一家と合計七人で、川の上流へ炭火焼セットを持って行って、川原でバーベキューをしたこともあった。
そんな平和だった城岡家がおかしくなり始めたのは、いつからなのだろう。何が原因なのだろう。美名はそれに対する答えを持っていない。
気づけばこうなっていた、としか言えない気がする。
子供のころは、母の離婚の原因は母の言うとおり前夫の人格や態度に大きな問題があったのだろうと想像していたが、しだいに母のほうに何か良からぬ行為があったのでは、と疑うようになっていた。
母が不倫しているらしいことに気づいたのは、中学1年のときの冬、美名が学校の課題でパソコンを使う必要があったときだった。
母の部屋にある、少し古い型のノートパソコンを無断で起動し、ワープロソフトで必要な書類を不慣れながらも作成し終わったあと、ついでにインターネットで動画でも見てみようとブラウザを操作したときだった。
ブックマークにとあるウェブメールサービスが追加されていた。
特に深く考えず、そのページを開いてみたら、目を疑うような内容が一面に広がっていた。メールのやり取りをしている相手は、T―MORIと名づけられたアカウントのみで、件名が「明日会える?」とか「ごちそうさま」とか、にわかに理解しがたいものだった。
おそるおそる開封済みのメールを開いてみると、「明日、夜勤って言ってごまかせる?」と短く書いてある。
悪いことだとは承知しながら、送信済みメールのフォルダを開いて、真子が相手に送ったメールを覗き見た。
「だいじょうぶよ、ウチの旦那バカだから」「稼ぎのないヒモ男」「旦那より気持ちいい」などという、目を覆いたくなるような、唯介を見下す内容のメールがいくつも並んでいた。
激しく脈打つ胸を落ち着かせるように手で押さえ、パソコンの電源を落とした。
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