十一

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十一

 それから半年ほど、美名は苦しい日々を過ごした。唯介に、実母の裏切りを知らせるべきなのかどうか。  そしてとうとう母が夜勤という名目で家を留守にすることが目立ち始めたころ、意を決して、 「お母さんが、よその男の人と会ってるみたいなんだけど」と言った。  唯介は平然と、 「知ってるよ」と言った。  予想外の返事に、美名は少なからず衝撃を受けた。  驚いて絶句している美名を横目でちらりと見た後、唯介はリビングの窓のほうに視線を逸らせた。 「でも、どうしようもないだろう。お母さんの気が変わって、また戻ってくれるのを待つしかない。それまで、我慢するほかないんだ」 「でも、それでいいの……?」 「仕方ないだろう!」と唯介は怒鳴った。  耳鳴りがするほどの大きな声だった。ふだんまったく怒りを表すことのない穏和な唯介が、顔にしわを寄せて鬼のような形相になっている。 「俺だって、苦しいよ。でも、どうしようもないんだ。実は、再就職してまた自分の稼ぎを作って、離婚するための準備をしようとしてたこともあるよ。……でも、いくら男女同権の世の中だと言っても、一度専業主夫という地位に堕ちた人間なんか、まともな給料で雇ってくれる会社なんてないんだよ。美名ちゃんや宏司くんが学校に行ってるあいだ、面接に何件か行ったこともあるんだけど、ほとんど門前払いだ。本当、情けないよな。……俺がこの先もまともに生きていこうと思ったら、真子の稼ぎに依存して養ってもらうしかないんだ。仮に、どっかでまともな職に就けたとしても、俺はその先どうなる。この歳になったら再婚なんてできやしないし、孤独死の独居老人一直線だ。俺だって悔しいし、悲しいけど、自分をだましながら今の生活を続けるのが、残念ながらベストなんだよ。口出ししないでくれ」  一気にそう捲し立てると、唯介は俯いて涙を流し始めた。 「お父さん、ごめんなさい」と美名は言った。  唯介が覚醒剤に手を出していると知ったのは、それから数ヶ月ほど経過した日だった。  体調不良のため午前中で学校を早退しマンションに帰る、と唯介は買い物にでも出かけているらしく、不在だった。  どこかに風邪薬があったはずだと、リビングの棚を探したが、見つからない。あちこち探すうちに、台所の引き出しを開けてみると、そこにあったのが3本の小型の注射器と、白い粉だった。  美名はそれを見て、いったい何なのか理解できなかった。いや、きっと別の何かに違いない。なにせ母は看護師なのだから、自宅に注射器があったとしても、それほどおかしなことではないだろう、などと自分に言い聞かせてみたものの、台所の引き出しを触るのはほぼ主夫である唯介のみであるから、それが唯介の所有物であるのは間違いない。  一週間後、また引き出しを開けて確認してみると、注射器は一本減っていて、白い粉が入った袋はなくなっていた。  その日の夜、長袖のシャツを着て台所で洗い物をしている唯介が袖まくりをしたとき、前腕内側のひじ関節に近い部分に、真新しい注射痕があるのを、美名は確認した。  いったい、どこで薬物を手に入れたのだろうか。非社交的な唯介は、パート勤務先以外にはあまり人と接する機会はないはずだ。それとも、真子と再婚する前に、誰も知らない交友関係があって、それが今も続いているのだろうか。  もちろん唯介の行為は言語道断だ。しかし、実母が継父を裏切っているということに、母と血の繋がっている美名は、強い負い目を感じていた。酒もタバコもやらない唯介にしてみれば、配偶者に裏切られ続けている日常を過ごすためには、それもやむを得ないのかもしれないとも思う。そもそもの問題は、唯介にはない。唯介は被害者なのだ。  唯介がどの程度、薬物に依存しているのかはわからないが、中毒による奇行は見られない。もちろん警察に見つかれば、唯介は逮捕されるだろう。  兄はひきこもり、母はよそに男をつくり、一見するとまともな父は、違法な薬物を使用している。かように、実質的に城岡家は、機能不全などという言葉ではとうてい足りないほど、完全に破綻している。破綻し切っている。家事放棄やネグレクトやDVのような、不幸ではあってもありがちな家庭崩壊パターンのほうが、まだマシなんじゃないかとすら思える。  しかし、唯介と真子が仮面をかぶりつつも夫婦を続け、唯介の薬物が誰にもバレず、兄が部屋から出ずただ死なずにいてくれれば、現状は維持できる。ただちに致命的な悪影響を及ぼすようなものではないのだ。美名はそう思って、この地獄のような家庭で高校卒業までを耐えて過ごすことを決意した。  大学に進学したら一人暮らしを始めて、卒業後は家族とは完全に縁を切ろう。それ以外に、自分の人生を正常化する道はないのだ。  もう寝よう、そう思って美名は布団を頭までかぶった。  その直後、いきなり天井のほうから、「パン」という、まるでおもちゃの鉄砲のような音が聞こえてきた。かぶった布団から顔を出して、あたりを見回す。特に何も変化はない。それほど重くはない何かが、天井裏に落ちてきたような音だった。  なんだろう。気のせいだろうか。それとも、理佐が言っていた謎の怪奇音とは、これのことだろうか。  少しずつ全身にめぐっていた眠気が、一気に吹き飛んだ。  息をひそめて、じっと天井を見つめている。絶えず降り続いてる雨が軽く風にあおられて、ときおり弱く窓ガラスを叩いている。  いきなりスマホが、電子音を発した。  その音に驚いた美名は、ベッドの上に横になったまま身体を一瞬振るわせた。スマホをサイレントモードにするのを忘れていたと、数秒経ってからようやく自覚する。  起き上がって、暗い部屋のなかまぶしく光ったスマホの画面を見る。午前0時30分をすでに過ぎていて、いつのまにか日付けが変わっていた。  SNS専用アプリが、「新規フレンド申請1件有り。承認しますか?」というポップアップが表示されている。  新たにフレンド申請してきたのは、園田北斗だった。ユーザー名も本名を使ってあるようだ。  すぐに申請を承認すると、間を置かずメッセージを着信した。  ”ありがとう。園田北斗です。同じクラスの牧場莉乃さんからアカウント教えてもらいました”  ”うん。お昼に莉乃から言われました”  ”いきなりなんだけど、僕と付き合ってくれませんか?” 「え?」思わず声が出た。  まさかこんなに急に告白されるとは、思いもしなかった。いずれ告白されるにしても、それなりの期間メッセージのやりとりをして、とりあえず友達として仲良くなってのことだと想像していた。  メッセージにはすでに既読のアイコンが付いてしまっている。読んでないと言い張ることもできそうにない。  しばらく考えてから、「すぐに返事はできません。少し考えさせてください」と送った。
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