1/1
前へ
/47ページ
次へ

 ゴミ袋を両手に持った手の人差し指を伸ばして、エレベーターの「▼」マークのスイッチを押す。1階に止まっていたエレベーターはすぐに上昇し、美名の前で左右に扉が開いた。当然だが、中には誰も乗っていない。  エレベーターに入り、「1階」のボタンを押す。幕が閉じるように左右からドアが真ん中へ迫っていると、その向こう側で301号室の玄関がガチャガチャとドアノブの動く音を立てながら開くのが見えた。そして、美名と同じように黄色いゴミ袋を両手に持った鷺宮理佐(さぎみやりさ)が、スカートを履いたお尻でドアを押しのけるようにしながら、共有部分の廊下に姿を現した。  エレベーターの「開」のボタンを押したままの美名を見つけると、理佐は短い距離を小走りで駆け寄ってきた。 「おはよう、美名ちゃん。ありがとう」と理佐が言った。 「おはようございます」  美名は再び「閉」ボタンを押すと、扉が閉まってエレベーターは1階に向けて下降を始めた。  まだ朝早いのに、理佐はしっかりと化粧をしている。ショートカットの茶色い髪の毛はどこか幼く見えて、一回りほど若い二十代前半のようにも見える。夫の鷺宮氏は、正確な年齢は知らないがおそらく60代半ばを過ぎているはずで、夫婦が横に並べば、親子というよりも祖父と孫のようにも見えるかもしれない。  これまでにも何度か、こうして朝のゴミ出しに理佐と鉢合わせたことがある。そのたびに理佐は美名に気さくに話しかけてきて、井戸端会議のように短く立ち話をすることもあった。  数か月に一度くらいだが、たまに理佐に301号室に招待され、ケーキや紅茶などをごちそうになることもある。美名はこの、母に例えるには歳が近すぎ姉に例えるには離れすぎている女性に、なぜか親近感を持っている。 「美名ちゃん今、何年生だった?」 「二年です」 「そう。じゃ、来年受験ね。勉強がんばってる?」 「ええ、まあ……」美名は曖昧に答える。 「できるなら、東京の大学に行きなさいね。若いうちに都会を経験してるかどうかって、けっこう重要だから」 「はい」と美名は素直に返事をした。  サンダルの裏面を押されるような軽い浮遊感を伴った後、一階に到着してエレベーターのドアが開いた。理佐が先に出て、美名はそのあとに続いた。  マンションの出入口のすぐ横にある、カラス除けの金属ネットが蓋になっているゴミ置き場のボックスを開けて、その中にゴミ袋を放り込んだ。 「これで、良し」と理佐は両手を埃を払うかのような動作をした。  美名もそれに倣い、理佐のしぐさを真似た。 「今日も、お母さんはまだお仕事なの?」理佐が立ち止まって尋ねてきた。 「あ、はい。そうみたいです」 「たいへんよねぇ。ウチ、エレベーターのすぐ隣だから、夜で静かだとモーターが動く音が聞こえてくるんだけど、美名ちゃんのお母さん、帰ってくるのが明け方だったりお昼だったり、かなりまちまちよね。身体壊したりしなけりゃいいけど」 「たぶん、だいじょうぶです。勤務先が病院ですから」 「まあ、それもそうね」  美名の母親である真子は、市内の救急指定されている大病院に、看護師として勤務している。  お世辞にも都会とは言えない地方都市であっても、近所付き合いといものがすっかり希薄になっているが、ワンフロアに4室しかないマンションでは物理的に距離が近いせいか、互いの家族構成や職業などは、しっかりと記憶されている。  鷺宮夫婦も302号室の吉田夫婦も、美名の母親が看護師であることも、また、城岡家では真子が大黒柱として外で稼ぎを作ってきて、父の唯介が専業主夫として家を守っているということも、知っている。  といっても、唯介も週末は郊外のファミレスにパートに出て、城岡家の家計の一部を支えている。  303号室に住んでいる多田だけは、意識的に同フロアの住人と接触を避けているきらいがあるため、いったい彼が何者かを知る術がいまだにない。  男女同権の世の中になったとはいえ、専業主夫の家庭は稀で、鷺宮夫妻がこのマンションに引っ越してきたときはおそらく珍しい家族だと思われたに違いない。しかし、珍しさでいえば親子ほど歳の離れた鷺宮家も五十歩百歩で、美名と理佐はこうして会話を交わす間柄とは言っても、夫婦の事情についてはあまり踏み込まないことが互いに不文律のようになっていた。  先ほどまで1階に止まっていたはずのエレベーターは、一度5階まで登ってから、下降を始めた。 「あ、そうだ。最近、美名ちゃん夜中まで勉強してたりする?」思い出すように、理佐が尋ねた。 「え? いえ、だいたい毎日11時くらいまでには寝てますけど」 「そう。それならいいんだけど……」  理佐は腰に手を当て、少し訝しげな表情を作った。 「何かあったんですか?」 「いや、大したことじゃないんだけどね。なんか、夜中の2時か3時くらいになると、ウチの部屋、天井からなんか変な音が聞こえてくるのよ」 「変な音……? 上の階の人が、何かやってるんですか?」 「2か月前くらいからかなあ。上の階っていうよりも、天井のすぐ真上のほうで、何かちょくちょく聞こえるようになってね。しかもそれが、隣の部屋から天井あたりから、うちのほうに何かが動いてくるような」 「もしかして、ネズミが何かですか?」 「たぶん、違うと思う。ネズミの足音なら、カサカサって連続して聞こえてくるでしょ。そうじゃなくて、30秒か1分おきくらいに、軽いモノが天井のすぐ上にぶつかってくるような音。“パン”とか“コン”とか、そんな感じの短い音で、あんまり大きくはないんだけど。それがだんだん、隣から近づいてきて、それから遠ざかっていくような。ひょっとして、美名ちゃんのとこにもそんなのが聞こえたりしてるかなって思って」  理佐は軽く眉間にしわを寄せた。  美名は、自分がまだ聞いたことのないその謎の音に対して、少し気味の悪さを感じた。 「あ、変なこと聞いてごめんなさい。知らないならいいのよ。たぶん私の気のせいね。別にそんな大きな音でもないし、特に問題が生じてるわけでもないから」 「まさか、オバケとか……?」そんなことは有り得ないと思いつつも、美名はそう言った。 「それはないでしょ。もしかして美名ちゃん、そういうの信じるほう? オバケ怖かったりするの?」打って変わって、軽くにやついた表情をして理佐が言った。 「いえ、ぜんぜん信じてないですけど……。でも、見たことないから、怖いじゃないですか」 「まあ、そうよね。実体があるなら対処のしようもあるけど、いるのかいないのかもわからないから、気を付けようもないわよね。オバケもまあ、自然災害みたいなものよね」 「自然災害?」 「いつか必ず大地震や洪水があるって言われても、それがいつ来るかわからなけりゃ、どうしようもないでしょ。ふだんから怖がってちゃ、まともに生活できないし」  美名はその、心霊現象を自然災害にたとえる理佐の意図がずいぶんとわかりかねたが、それ以上掘り下げるようなことはせず、納得したふりをして、 「そうですね」と同意しておいた。
/47ページ

最初のコメントを投稿しよう!

95人が本棚に入れています
本棚に追加